一章 黒姫

 ロープをぐいっと引っ張って、体重をすべて使って固定する。
 ヴァートのような小柄では無理では、大変では、といつも言われるけれど、自分は他の技術者や管理者たちよりよほど上手い、と思う。
 するすると身軽にタワーにかけられた梯子を降りる。
 足元だって特別気にしているわけでもなく、地上へと着地。
 そして、見上げる。
 この国ウィンダリアのエネルギーの大半を賄っている巨大な風車を。
 いや、これはこれで大きいが、ウィンダリアの風車の中では小さいほうだ。
 今日の予定だった五基の風車の点検を終えると、ヴァートは研究所に向かって歩き出した。
 と、前方に見慣れない背中を見つけた。
 黒い、後姿。
 それは知識としては知っているが、実際に目にするのはとてもめずらしい。
 王宮内ではたまに見かける、女の子ばかりの部署。
 確かにそこにいるのに、何をしているのか、どんな娘がいるのかなど、知られていないことの多い、王の直属だという噂の部署。
 ここは王宮から研究所へと続く唯一の一本道。人はめったに歩いていない。その道を歩いている彼女、ということは……つまり?
「ここに用事なんですか? 珍しいですね」
 背後から声をかけると、けれど彼女は予想に反して驚いたりはしなかった。
 研究所の門の前で振り返る。
 髪と、そして瞳までも闇夜のような漆黒。それをこんな近くで見るのは初めてだ。
「中に入ります?」
 年齢は同じくらいだろうか。もっと幼くも見えるし、でも年上と言われたらそうかもしれないと思う。
 ヴァートの問いかけにしばらくこちらを見返していた彼女は、こくん、とわずかに頷いた。
 彼女が黙っている間にざっと視線をめぐらせる。
 黒の制服、胸にはウィンダリア王国の国紋と並んで、見たことのない徽章がある。鳥を象っているようにみえるが、これも黒だ。
 まあ、国紋を胸に付けている人を疑っては駄目だよなあ、一応、と自分を納得させて門を開ける。
 ヴァートの胸にも光を反射しているこの国紋は、誰でも簡単に手に入れられるものではない。
 ヴァートは、門の鍵に手を伸ばした。
 ここは国の最新技術を取り扱う研究所だ。門の鍵もひとつじゃないし、単純でもない。けれどヴァートにはそう難しいことでもなく、解錠してまず自分が門をくぐる。
 振り返ると彼女は後ろから用心するように左右に目をやってから踏み出した。
 門には実はいろいろ仕掛けがあるわけだけど、とりあえず彼女に対しては作動しなかった。
 当たり前、かな。だって国紋入ってるし。もういちど自分に言い聞かせる。ここは王国一の頭脳が集結している研究所だ。疑り深いのは仕方ない。
「貴女はここに来るのは初めてですか?」
 鍵をかけなおしながらたずねる。
 答えは返ってこなかったが、施錠して振り返ると、彼女は数歩離れたところで待っていた。
「それで? 僕に案内させたいんですか、貴女は?」
 ちょっと意地悪く言ってみる。
 それでも彼女は態度を変えず、じっとヴァートを見返した後……首を振った。それから彼女は背を向けると、すたすたと歩き出した。
 初めて、ではなかったのだろうか。
 自分が知らない人がここに出入りしているなんて思わなかったので、かなり驚いた。
 ついて行くつもりはなかったのだけれど、行く先が一緒だったので、しばらく後ろを追いかけていく格好になった。で、たどり着いた先がまさしく自分と同じだったことに仰天する。
 彼女が扉をノックする。
「はい?」
 中からは今ここにいるべき人の声がする。ヴァートの同僚である先輩だ。そして、扉が内側から開く。
「おう、いらっしゃい。あれ、ヴァートもおかえり」
 その人、ミール・アイスターは黒の制服の彼女に驚くこともなく、むしろヴァートの姿に目を丸くした。
「早かったんだな」
 ヴァートに声をかけつつ、彼女を部屋に通す。
 ここは研究所でも重要機密が詰まった部屋なんだけれど、と黒い彼女の背中を目で追う。
「ちょっと待ってろよ。えーっと。おう、これだ」
 ミールは自分のデスクから書類を引き抜き、立ちっぱなしの彼女に渡した。引換のように彼女が書類を差し出すのを、ミールが受け取る。
「あー、これなあ、進んでないんだよなあ」
 ため息をつくミールは、いつも一緒に仕事をしている姿と変わりない。
 ふたりのやり取りを横目に、ヴァートは自分の今日の報告書を仕上げにかかる。
 背後にふたりの気配は感じ取れるものの、声はミールのものだけだ。彼女は一言も発さない。
「了解。じゃ、また」
 ミールの挨拶にはっとして振り向くと、もう彼女は閉まる扉の向こう側で、黒い後ろ姿を見送ることもできなかった。
「何ですか、今の人」
 ヴァートは不審に思うのを隠しもせずに、いきなり先輩にたずねた。
「んー」
 誤魔化しているのかいつもどおりなのか、ミールは書類をめくりながら曖昧に返事を寄こす。が、誤魔化しているつもりではないらしく、少ししてから答えは返ってきた。
「黒姫のこと、聞いたことくらいはあるだろ、おまえも」
「黒姫?」
 その呼称が確かにぴたりと当てはまるが。
 ヴァートは無言で先を促す。
「俺だって詳しく知っているわけじゃないさ。ただ国王直属の精鋭部隊、なんだろ?」
「女性だからといって見下すつもりはありませんが、彼女、精鋭なんですか?」
「知らないって、俺も」
「あと、黒姫ってなんですか」
「呼び名がないと不便だろ。あれ、とかいつも言うのもわかりにくい」
「……名前は?」
「明かしてないそうだ。俺も聞くなと上から言われたよ。ま、どのみち聞いても無駄なんだけどさ」
「はあ?」
 なんだそれは、と思う。
 名前を伏せる? 何のために?
 そう思ったヴァートに応えるように、ミールは手をとめにやりとわらった。
「マズいんだろ、身元を伏せてなきゃ」
「……どうしてですか」
「あの部隊は何でもするらしいからな。スパイ活動でも、暗殺でも、なんでも」
「な……」
 ヴァートが絶句すると、きい、と椅子をまわしてミールは机に向かい、仕事を再開させる。
「そういう噂だぜ」
 まさか、と思いつつ、でも、とも思う。
 真っ黒の制服。
 やたらと目立たない気配。
 一言も口を利かなかった態度。
 暗殺者かどうかはさておき、異常であることは間違いない、と思った。
(黒姫、ねえ?)
 違和感があるのに、妙にしっくりしてしまう呼称を、胸の中で一度だけ呟いた。