一章 黒姫

 国内でも一、二を争う有能な技術者である、という自覚はある。
 年齢や容姿で甘くみられることもあるけれど、それはすなわち相手の低能さの証明、と思ってヴァートは無視している。
 やわらかそうな金髪と、翡翠色の瞳、上品そうな顔立ち。少々幼さが残るが、王国の国旗に準じる濃い緑色のマントをまとった姿は、貴族の御曹司といっても通りそうな雰囲気だ。
 ヴァートはエメルダという姓をもっているが、これは中流階級の名前だ。貴族ではない。
 貴族ではなく、なのにこの年齢で重要な地位についている者のみに許されるこの色のマントをまとっているのは、ひとえに彼の優秀さによるものだ。
 ヴァート・エメルダは、首席研究員である。
 その日、王宮へと出向く仕事のあったヴァートは、いつも以上に目を配りながら進んでいった。
 すると意外なことに気付いた。
 目を凝らせばあの黒い制服の女の子は何人もいるようだ、ということがわかったのだ。
 しかも誰もが、今まで気づかなかったのも無理ないと思えるほど、皆、本当に気にしていないと見過ごしそうになる。
 確かにそこにいるのに、視線が上を滑っていく。恐ろしく人の気配と言うか、存在感のようなものがない。
(気配を消す訓練、とかうけているのでしょうかね)
 それではまるで軍人だ。いや、もしかしたらむしろ軍に近い部隊なのかもしれない。スパイでも暗殺でも請け負うって噂だぜ。その言葉が脳裏をよぎる。
 ヴァートはウィンダリアの象徴ともいえる、国で一番大きな風車へと向かった。
 そこには専属の技術者たちがいるのだが、多分誰一人としてヴァートの知識と技術に及ばないのだ。認めているのかいないのか、ヴァートは時々こうして呼びつけられる。
 と、その時。
 また視界にその姿をとらえた。
 黒い制服。黒い髪。
 どうして気付いたのかは自分でもわからないけれど、あれは彼女だ、とわかった。
 先日研究所を訪れ、ミールに書類を渡していた彼女。
 ミールが黒姫、と呼んだ彼女。
「こんにちは」
 ヴァートはその黒い後ろ姿を追いかけて、声をかけた。
 彼女は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
 そこには表情がないけれど、あれでも少しは驚いているのかな、と思う。
「このまえお会いしましたよね。覚えてます?」
 少しのぞきこむように言えば、彼女はじっとヴァートを見返し、そしてわずかに頷いた。
「良かった。このまえは挨拶もなく帰られてしまって、僕はちょっといじけていたんですよ?」
 冗談を口にしたが、彼女は反応なくそこに立っている。
 なんだが……人間ではないみたいだと思って、思った自分にぞっとした。
「僕は風車技師で首席研究員のヴァート・エメルダです、て、もしかして、知ってます?」
 ヴァートが名乗ると彼女はまた、わずかに頷いた。
「なんだ、知っているんですね。じゃあ、貴女は?」
 きわめて自然に問い返したのに、彼女は反応しなかった。……いや、少しの間の後、今度はわずかに首を振った。
「それは……どういう意味ですか?」
 たずねても彼女はじっと見返したまま答えない。答えようとする素振りもない。
 でも逆に、話さないぞ、という意思みたいなものもまた感じられない。
 まるで、ただ答える術がないかのように……。
 そこまで思い至って、はっとした。もしかして彼女は。
「喋れない、のですか?」
 なぜ?
 理由を考えようとして、わけもなく空恐ろしくなって、考えるのをやめる。
 彼女はやや考えるふうに視線を落とした後、再びヴァートの顔を見て頷いた。
 その仕草に、少しほっとした。
 彼女は自分との意思の疎通を完全に放棄したわけではないのだ。
 ヴァートが次の言葉を続けないのを会話の終わりととらえたのか、彼女はまた背を向けて歩いていこうとする。ヴァートは反射的にそれを追いかけた。
「名前は? 教えてもらえませんか?」
 隣に並んで歩き出したヴァートを、彼女はちらりと見てから首を振った。
 名は伏せられている、とは聞いている。でもヴァートは誰にも直接口止めされていないし、問いかけるだけなら罪には出来ないはずだ。彼女が答えないことは残念ながら予想どおりだった。
 ふと、彼女が歩いて行く先が、先日の研究所で会ったときと同じく、自分と同じ方向であることに気付いた。この前もミールに書類を届けていたわけだし、ひょっとして彼女は。
「あのもしかして、今、大風車台に向かってます?」
 同じ目的地に、さらにあるいは同じ目的だったり……するのだろうか。彼女はヴァートのほうに顔を向けると、頷いた。
 まるで思ったことをすべて肯定されたような気持ちになった。
 それに対して返事をする前に、ふたりの眼前にウィンダリアの大風車台が現れた。


 ヴァートはいくつかの事項を説明し、指摘された点を解説してやり、逆に彼らのやっている整備について突っ込んで質問した。
 その場で一番年下だろう自分が話を取り仕切っているのもいつものことで、進歩のない大人たちだ、と心の隅で考えていた。
 ああいう固い頭の持ち主は、技術者には不向きだと思う。
 新しいことに取り組むには、ときにそれまでの常識を捨てる勇気が必要だ。
 通常は、とか、慣例では、とかいう単語に価値はない。
 そういう実りの少なそうな会議を終えて、ヴァートはまたひとり歩き出した。
 このまままっすぐに研究所に戻るつもりだ。
 王宮の人通りの少ない階段を下りていると、踊り場を回るとき、ふとそれが目に入った。
 黒い制服。
 手には書類の束を持っている。
 階段をぱたぱたと駆け降りてくるその姿が、いやその視線が、自分を追いかけていることに気付いた。
「あれ……?」
 呼びかけようとして、名がないのは不便だ、と少し眉をひそめる。
 立ち止まって見上げていると、すぐに彼女は追いついてきた。
 黒姫。
 そんな呼び名を思い出す。妙にしっくりしていて、なんだか嫌だ。
「僕を追いかけてきてくれたんですか? 光栄です」
 冗談めかして言ったのだが、彼女は笑いもせず持っていた書類の束をヴァートに差し出した。
「僕の、ですか?」
 受け取ると彼女はこくんと頷いて、踵を返した。
「あれ、行ってしまうんですか?」
 呼び止めると彼女は階段の途中で足を止め振り返った。けれど引き返してくるつもりはさらさらなさそうだ。
 当然か。
 ヴァートは苦笑して、微笑んだ。
「おつかい、ありがとうございます」
 皮肉っぽく言った言葉に、黒の彼女は頷いて、階段を上がって行ってしまった。
 その背中を見送るのは数秒。
 ヴァートも背を向け階段を下りて行った。