一章 黒姫

 慣れとは驚くべきもので、研究所の自分たちの部屋に彼女がいても、ヴァートはもはや驚きはしなかった。
 おそらく彼女は自分たちと同じ、大風車台に関わるチームのメンバーなんだろう。
 ただのお使い程度なのか、ヴァートの知らない重要な役割があるのかはさておき。
「お、ヴァート。いいところに帰ってきた!」
 同僚の声に足を止める。見れば彼女も自分を見ていた。
「いいところ、っていうか、そろそろおまえが帰ってくるんじゃないかと思って待ってたんだけどな」
「それはそれは。ご期待に応えられそうでなによりです」
 わざと嫌味っぽく返事をすれば、同僚……つまりミールは、言うなあこのガキめ、とこちらもわざと貶すように受け答えた。
「それで何ですか? 僕に頼みとあらば、それなりの仕事なんでしょうね?」
「う、わ。おまえってたまに、その研究所随一の天才を遠まわしに主張するよな」
「あはは、たまにだからいいじゃないですか、本当のことですし」
 人が天使のようだ、と時に表現する笑顔でさらりと返せば、ミールは事実だけに返す言葉がないぜ、と頭をかきむしった。
「それで? 用ってなんです? 彼女が待ってますよ」
「おう、そうだった。天才に頼むにはお粗末な用事だがな。荷物持ち、やってくれないか」
 ミールは先輩の顔に戻って、傍らの模型を指差した。
「ああ、いいですよ」
 ヴァートがあっさり頷くと、他ならぬ黒の制服の彼女が少し驚いたように目を瞠った。
「んじゃ頼んだぜ」
「わかりました」
 ヴァートの承諾をミールはもうさっさと机に向き直って背中で聞いている。
 ヴァートはそこに影のように立っている黒姫に目をやった。
「それで? もう移動すればいいんですか?」
 声を掛けられて彼女は我に返ったように顔を上げ、黙ったまま頷いた。
 ヴァートが大事な模型を大事に抱え上げると、静かに歩き出した。


「王宮に行くんですか?」
 並んで歩く隣の少女にたずねると、黒姫はこくんと頷く。その手には書類を持っている。
「さっき」
 しばらく無言で歩いていた二人だが、研究所から王宮へと続く人のいない道へ入ると、ヴァートが口を開いた。
 ちら、と彼女がヴァートを見返す。
「貴女は驚いた顔をしてましたね」
 そういって彼女の顔を窺うと、黒姫はじっと前を見つめたまま反応しなかった。
「理由は簡単なことですよ。この模型……これがなんなのか、貴女は知っているんですよね?」
 探りを入れると彼女はややゆっくりと頷いた。一応何たるかは知っている、そういう感じだろうか。
「これを設計したのは僕ですから、これは僕の大事な仕事です」
 すると黒姫はこくんと頷いた。理解できる、そんな感じか。
「貴女を信用してないわけではありませんが、僕の完璧な仕事を、完全な形で届けることは、重要事項です」
 言うと彼女はまた、こくんと頷いた。
「なんせこの仕事を一番完璧にこなせるのはこの僕ですから。王宮の技術者たちは僕の仕事に舌を巻いて悔しがればいいんです」
 試すように、ミールと交わすような軽口を言う。王宮の人の前では絶対に言わない冗談だ。冗談だけれど、本当のことだ。誰もヴァートにはかなわないのだから。
 そして……彼女は王宮側の人間のはずだ。
 ヴァートの自信たっぷりの軽口、あるいは嫌味とも言えるそれに彼女は……わずかに微笑んだ。
 それは例えるなら、ミールが嫌味な奴だなと言って笑うのと、同じ種類の笑みに見えた。
 まるで、友人のような。
 ヴァートは両手で模型をしっかりと抱えなおしてから、彼女の顔を覗きこむ。
「今、笑いましたね?」
 すると彼女はずいっと迫ってきたヴァートの顔を見て、今度こそ目を細めて笑った。
 心が、軽くなるとはこういうことか、と思わせる瞬間だった。
 そのときヴァートはどんな顔をしていたのだろう。
 黒の彼女は笑みを引っ込め、じっとヴァートを見返した。
 どちらからともなく、足が止まっていた。
 彼女は少し不安そうに見える様子で周囲に視線をめぐらす。
 何を不安に思っているかわからないが、大丈夫、周囲には誰もいない。
「貴女は……」
 ヴァートは彼女の正面に立って見下ろした。
「僕のことを知っていますか」
 あやふやな問いに、でも黒姫は頷いた。
 迷いなく答えたように見えた。
「研究所始まって以来の天才児だって?」
 人は大げさにそういう。それは称賛半分やっかみ半分だが、ほぼ事実だろうからヴァートは修正しない。
 黒姫はまた、頷いた。
 頷くか首を振るかが主たる意思表示なのに、ちゃんと会話が成り立っている。初めに会ったときに感じた、人間ではないような印象はもはやなかった。むしろ彼女は……たぶんとても素直な人だ。
「貴女は、僕が好きですか?」
 いきなりだった。
 唐突だった。
 どうして自分がそんなことを口にしたのかはわからないけれど、聞いてみたくなったのだ。
 いや、思ったのではない。
 自分の口から出た言葉を耳にしてから初めて、脳が、心が、聞いてみたくなったという気持ちを理解した。
 彼女は視線をさまよわせた。何度も何度も周囲を確認している。
 これまでに見せたことのない彼女の様子をヴァートが静かに見守っていると、やっと彼女の視線が戻ってきた。
 そして……その唇が、動いた。
「自信家な人は、嫌いじゃないです」
 それは夜明けを歌う小鳥のように。
 高く小さく、軽やかな声だった。