一章 黒姫

「しゃべる? 黒姫が? ありえんだろ」
 ミールは振り向きもせずに断言した。
 ヴァートは次の言葉を選び損ねて口をつぐむ。
「だっていつも来ているあいつだって、喋ってるのきいたことないだろう?」
「ええ、まあ……」
 曖昧に返事をしてヴァートは仕事を続けるふりをした。
「それが決まりだってきいたぜ?」
「決まりですか? なんの?」
「あの制服を着ている連中の、だよ」
 王の直属と言う以外、何も知られていない部署、あるいは部隊。組織全体の中でどこに位置づけされているのかもわからない。
 ただ黒い制服と、構成員が女の子ばかり、というのがわかっている情報だ。
「けど、なんで気にするんだよ。お、ひょっとしてヴァートにもついに春が?」
「なに言ってるんですか」
 ミールの冷やかしに、ヴァートは呆れて答えた。
「あんなふうに喋らずにいたら不便じゃないかなって思ったんです」
「不便って」
 その言葉にミールのほうこそ呆れた顔をした。
「あんな命令通りに動くだけの人形みたいな連中に、不便とかあるのかよ」
 おそらく。
 それが一般的なとらえ方なんだろう。彼女たちもそう振舞っているんだろう。あれだけ徹底しているのだから、あるいは相当な訓練を受けているのかもしれない。噂通り暗殺まで請け負うかはわからないが、諜報員だと言われたら納得できる雰囲気ではある。
 でも、ヴァートは知ってしまったのだ。彼女の本当の姿はべつにあると。
 ちゃんと驚くし、笑うし、そして……一言だけど、ヴァートに声を聞かせてくれた。
 彼女は、本当はただの女の子なんだ、と。それをあの黒い制服で隠してしまっているのだ。
「……ヴァート」
 しばらく無言で仕事に向かっていた部屋に、先輩同僚の声がぽつんと響いた。それは何の色も付いていない声だった。
「なんですか」
 だからヴァートも文字通りの意味だけを乗せて答えた。
「あの娘はやめとけ」
「……は?」
 言われた意味がわからずヴァートは振り返ったが、ミールは机に向ったまま顔を上げない。
「どこを気に入ったのかは知らないが、あれを恋愛対象にするのはやめておけ、て」
 ミールの背中が淡々と告げた。
「そんなこと……」
 ヴァートは笑い飛ばそうとして、声がひきつりそうになる。
 科白の途中で言葉をとめる。
 こちらを向かないミールに気付かれないよう、息を吸って、吐く。
 そしていつもの冗談をいうような明るい声で答えた。
「なに言ってるんですか、あなたは」
 そして机に向き直る。
 会話は終わりとばかりに一心不乱に計算の作業に取り組んだ。
 だから背後でミールがどんな顔をしていたかは、ヴァートの目には入らなかった。


 午前中は気温が上がらず肌寒い、と思っていたら、午後から雨が降り出した。
 風車たちはそんな中、ゆっくりゆっくりと回っている。
 日が照らなかった日中に反して、日が沈んでからも気温はあまり下がらなかった。
 こうなると、とヴァートが窓の外を見ると、案の定、霧が出ていた。
「雨、やんだか?」
「ええ、雨はやんでますが……今夜は見回りをしたほうがいいかもしれませんね」
 周辺他国に比べ科学技術の導入がずいぶんと遅れているウィンダリアには、時間になったら自動的に点くライトなんてものはない。
 そういう風車の管理に必要なものくらい、あの石頭たちを説得したほうがいいよなあ、と思う。そうすれば点検も見回りもらくになるのに。
 この国で優れているといったら、あの風車を建てる技術くらいだ。
 広大な森林と、風車を中心とした小さな町、というこの国の姿は大好きではあるが、このままではいずれ廃れてしまう。
 はあ、とため息をついて雨避けの上着をはおった。
「王宮に行くのか?」
 その様子にミールが振り返る。
「ええ、今晩は大風車台を眺めて過ごします」
「ご苦労さん」
 研究所から王宮へ続く一本道へ出ると、霧が濃いわりには風があることが分かった。
「この様子だと、夜半には霧も晴れますかね」
 森の王国ウィンダリア。
 国土のほとんどを森林が覆い、けれど年中強い風の吹いている土地。この風のために暑くも寒くもなり過ぎない温暖な気候。
 だから今日のように雨が降って霧が出る、なんてことは珍しい。
 南西の方向に海はあるけれど、その海水と空気の温度差がこうしてわずかな変化をもたらす。
 水のたまった王宮の外部階段をのぼっていく。
 手にしたたいまつの炎が揺れると、ヴァートの影も揺れて、まるで闇に何かが潜んでいるかのようだ。
 横長の台形のような形をした王宮の、一番上に大風車台は建っている。
 一番大きくて一番高いところにある風車だ。
 ヴァートはたいまつを掲げて大風車を見上げた。大きな四枚の羽がゆっくりと回転している。
 ……ふと。
 その大風車台のすぐ下に、人がいることに気付いた。
 まさか自分のほかにここへ見回りに来るような気の利いた人がいるとは意外だ、と思う。
 こちらは炎を持っていることだし、相手はこちらに気付いているだろう。
 ヴァートは近づいて行った。
 その人は……こちらを向いて立っていた。
 なかなか姿がよく見えない、と思っていたら、それは彼女の、そう彼女の、黒い制服のせいだった。
「貴女は……!」
 彼女だ、とようやく気付いてからヴァートは急いで駆け寄る。
 炎が照らすとどうやら彼女は濡れているようだ。
「濡れているじゃないですか。いつからここにいるんですか」
 今夜はあまり寒くないとはいえ、暖かいわけでもない。
 それなのに彼女は雨避けの上着とかマントと言ったものを身に着けていなかった。
 暗いので顔を近づけると、彼女の黒い瞳がヴァートを見返した。
「風車を見に来たんですか?」
 確認の質問に、彼女はこくんと頷く。
「とても感心なことですが、その格好は感心しません」
 ヴァートはたいまつを持っているのは反対の手で彼女の腕を掴んだ。黒の制服はじわりと湿っている。眉をひそめて歩き出す。もちろん彼女も引きずられるようについてくる。
 大風車台を見上げられる場所に、見張り小屋と呼ばれるものがあった。
 本当に小屋としか言えない代物で、屋上の隅とはいえ、仮にも一国の中心たる王宮にある設備としてはお粗末にもほどがある、とヴァートは思っているのだが、まあここで風車を気にして一晩過ごすのは自分くらいだから、急いで整備することもなく妥協しているのが現状だ。
 そこへ彼女を連れていく。
 中に入ると手を離し、ランプに火を移し、暖炉にも火を入れる。
 それでやっと小屋の中が明るくなる。
 タオルを差し出すと、彼女は少しそれを見つめてから受け取った。
 ヴァートは雨避けを脱ぐと、いつも使っている窓際の椅子に座り、霧の中、大風車を見上げた。
 すると彼女はヴァートのかたわらへ歩み寄り、一緒に風車を見上げた。
「風車、お好きですか?」
 炎に照らされた横顔に声をかけると、彼女はこくんと頷いた。
 ヴァートは思わず微笑んだ。
「もう少しすれば、少しは部屋が暖かくなります。あ、やかんをかけておきましょうか」
 ヴァートが立ち上がろうとすると、黒の彼女が手で制した。
 見返すと、一瞬目が合うが、すぐに黒姫は小屋の中をきょろきょろと見回した。
「わたしが、する。やかん、どこ?」
 そして、小さくつぶやいた。
 ヴァートは微笑んで椅子に座りなおした。
「それじゃあ、お願いしましょうか」
 黒姫はこくんと頷いて、身をひるがえした。