一章 黒姫
昨日とはうってかわって、天気の良い朝だった。
朝日が王宮と美しい大風車を夜から目覚めさせる。
一晩中風車を見ているのは骨の折れる仕事なのだが、ヴァートはこの夜明けの瞬間が好きだ。
世界が夜から朝へと切り替わると、ヴァートは立ち上がった。
いつも座っている椅子で一晩過ごすのは、ここへ来た時の常で、設置してある仮眠用のベッドを使ったことはない。そんな仮眠ベッドに、今日はすやすやと寝息を立てている人がいた。
振り返って見下ろして、どうしたものか、と思う。
こんなに気持ちよさそうに寝てくれちゃって。起こすのが少し、気が引けるではないか。
とはいえ、起こさないほうも問題なので、ヴァートはそっと手を伸ばす。呼びかけようとして……名前がわからないことに気付き、むっとする。仕方ないので彼女の肩に触れ、揺さぶった。
「起きてください、お姫さま」
すると、彼女はすぐにうっすら目を開けた。
「ああ、おはようございます。ちょっと早いですが、夜が明けたので起こさせていただきました」
だんだんと明るくなっていく小屋の中で、黒の彼女はのそりと体を起こした。
「僕はもう研究所のほうに戻りますから」
ヴァートの言葉を考えるように聞いて、それから彼女は頷いた。
そしてごそごそと簡易のベッドから降りる。
黒い制服は乾かないまま横になったためかしわくちゃだった。それに気付いたらしい黒姫が、手で伸ばそうとしながらやや頬を赤らめる。なんだか普通の女の子らしい仕草に、ヴァートはまた微笑んだ。
「貴女も早く戻ったほうがいいみたいですね。大丈夫です、この時間には人なんていませんから」
笑いながら自分の雨避けを手に取る。
暖炉の火もとをもう一度確認してから、ヴァートは小屋を出ようとした。
「あの……」
その時後ろから声をかけられた。
驚きつつも平常心を保って振り返る。
「はい?」
「ありがとうございました」
ぎこちなく彼女が礼を述べる。
「どういたしまして。風邪ひいたりしないでくださいよ」
微笑みつつ言えば、彼女はゆっくりうなずいた。
「ごめんなさい」
「なにがです?」
「あなたのベッドを使ってしまいました」
「ああ……」
どうやらそのことに恐縮しているらしい。
それでこうして話をしてくれるのだったら大歓迎だ、などと思ってしまう。
「平気ですよ。僕はそのベッド、使いませんから、普段から」
さらっと言うと彼女は首をかしげた。
なぜ、と視線で問いかけてくる。
それがわかって苦笑する。
彼女の表情から、彼女の言いたいことを読みとるのに慣れてしまった自分がいる。
「僕は風車を見守りにここへ来るのであって、こんなところで眠ったりしません」
答えると彼女は眼を瞬かせ、ベッドに目をやり、そして……頬を染めた。
「ああ」
彼女の表情の意味に気付いて急いで付け足す。
「いいんですよ、貴女は眠ってくださって。風車は僕がちゃんと見てましたから」
同じ目的でここにいたのに、すっかり眠っていた自分を恥じているらしい彼女が、とても微笑ましく見えた。
「ごめんなさい……」
また、消え入りそうな声で呟く。
ヴァートは早足に彼女に近寄った。
「気にしないでください。それよりいい機会だから貴女にぜひ、お聞きしたいことがあるのですが」
ぐい、と顔を覗き込むと、彼女の黒い瞳に自分の姿が写りこんだ。
「貴女の名前、教えてください」
その言葉に彼女がびくりと身をすくませた。
でも、視線は外さなかった。
相手の息遣いが届きそうな距離で、答えを待つ。
「……ナツェル」
ぽつり、と紡がれた言葉。
それは彼女の、名前。
「ナツェル」
ヴァートは口に出して呟いた。
不思議な響きだ。
そして、にこりと笑った。
「安心してください。絶対誰にも言いませんから」
彼女が、いやナツェルが頷くのを確認するかしないかのうちに、ヴァートは踵を返した。
「それじゃ、また」
どこかほっとした表情の黒姫を残して、ヴァートは研究所への道をたどる。
(ナツェル……)
その名を声に出さず呟いて、そして大切に胸の奥にしまった。
誰にも見せない、誰にも知らせない。
そして誰にも、教えない。
黒姫と二人だけの秘密は、今朝の空のように透き通った色をしている、と思った。