二章 星を詠む弟子

 自分の家に戻るのなんて、いつぶりだろう、と思いつつ、ヴァートは数日ぶりに部屋の窓から外を見た。ここからは風車が見えなくて落ち着かないのだ。目が自然と風車を探し、かなわなくて苦笑する。
 家に戻ってきたのには理由があって、目当ての資料を探し出して目を通していると、ふと、外がずいぶんと暗くなっていることに気付いた。そんなに熱中していただろうかと内心驚いたが、確かめるとまだ暗くなるには早い時間だ。
 ヴァートは立ち上がって外を見た。いつのまにか雲が立ち込めていた。
 ……いや、目を凝らすと霧のような雨が降っていた。
 音もなく振っている小粒のしずくは無音のまま緑の森へと吸い込まれていく。意識すれば、わずかに大地が湿るにおいがした。
 この辺りはあまり雨が降らない。
 なので人々は雨が降っているときはじっとして動かない。動いているのは、風車を心配しているヴァートくらいなものだ。
 ヴァートは部屋に戻りランプに火をともす。もういちど資料に戻ろうとして……扉の外で足音がしたのに気付いた。
 火がじりりとたてるわずかな音にかき消されそうな、小さな音。
 それからばさり、と布を振る音……これは、雨避けを脱ぐときの音だ。ヴァートは雨避けをよく使うので知っている。
 こんな雨の中、めったに住人の戻らない家に、いったい誰が何の用で訪れたのだろう。
 不審に思いつつ待つことわずか。
 扉が、ノックされた。
 やってきた一連の様子から、相手はこちらを警戒しているわけではないらしい。音をひそめるという動作をしていない。
 ヴァートは資料をわきに置き、手にランプを持って扉に向かった。
「はい、どちらさま?」
 わざと気安い雰囲気で、無防備なふうに開ける。
 その実すぐに一歩下がれるように身構えてはいる。運動神経が並より鈍いとは言わないが、積極的に攻撃するほど血の気も多くない。
 ヴァートは……一瞬視線が泳いだ。目の前に誰もいないのかと思ったが、ちがった。そこにいた人がヴァートの無意識の想像より小さかったのだ。
「な……貴女は」
 それだけがやっと言葉になって、そのまま絶句した。
 彼女は、王宮にいるときと同じ黒の制服を着ていた。すっぽりと全身を覆うタイプの雨避けを手に持っているので、雨の中急いで歩く姿は特に悪目立ちもしないだろうと思われた。
「えー……と」
 時間の流れが止まったかのようなふたりの間に、雨が降る音だけが静かに満ちていた。
 まるで、ここだけ世界から切り取られたように。
 まるで、世界はこれだけであるかのように。
「……寒いでしょう。入りますか」
 ヴァートがようやく口を動かした。
 今この瞬間が現実なのか夢なのか、そう思わせるのは雨のせいだけではないだろう。彼女がここにいる、というそのことが。
「……はい」
 雨の音にまぎれてしまいそうな声がわずかに答えた。
 そうとなればヴァートはもう、夢現をさまようことはなかった。体の向きをずらして彼女を部屋の中に招き入れる。
 暖炉に火を入れるほどではないので、ランプをもうひとつひっぱり出す。
「雨避けはこちらに貸してください。貴女はそこに座って」
 貸して、といいつつ彼女の手から雨避けを奪い取り、いつも自分のを干すように、テラスの一角へと持っていく。
「あの……」
「はい? あ、すぐ帰りますか? お茶を飲んでる暇はありませんか?」
 背中でたずねると彼女はどんな顔をしたのか、返事はなかった。振り返ると彼女はヴァートが示した椅子にちょこんと座っていた。それを見て、小さい人だな、と思った。自分の周りは自分より大きな大人ばかりなので、自分より小さい人というのはなんだか新鮮だ。
「さて、それで。まさか僕の休みに合わせて遊びに来てくれたわけでは、ないですよねえ?」
 彼女は王宮にひっそりと存在する謎だらけの、というか噂でしか知られていない国王直属の部署の一員だ。例外なく黒の制服をまとい黒い髪をした女の子なので、黒姫と呼ばれているのだそうだ。
 ヴァートが少し気になって調べてみたところ、黒姫、あるいは鴉の娘と呼ばれる女の子たちは、ここウィンダリアと、光の王国アンデルシアを中心に、世界中に点在しているらしいことがわかった。ウィンダリアでは国王直属と言っているが、実際のところは国とは別の独立した機関のようだ、というのがヴァートの見立てだ。
「はい……」
 ヴァートがお茶を用意して黒姫に差し出し、自らも椅子を持ってきて彼女と話ができる距離に座った。
 程よく設えられた場に、黒姫ほっとしたのをヴァートは見逃さなかった。
「それでは今日は、やっぱりお仕事ですか」
「はい」
「僕から何か聞きだす、という?」
 どうせここにはふたりしかいないのだ。取り繕うこともないだろう。ヴァートがさっくり言えば、彼女もこくんと頷いた。
 それから彼女はくっとあごを上げ、ヴァートをまっすぐに見た。
 そこには……表情というものが感じ取れなくて、ヴァートはどきりとする。
 その、言葉を封じているはずの唇が、自分の前では音を紡いでくれるが、それ以外は瞬きをする瞼のほかに動くことがない。
「ヴァートさまは風車の設計をなさいますね」
 どこか他人行儀な口調だが、今は彼女にとって仕事なんだろうと割り切って応じる。
「ええ、そうですね」
「その作業は貴方おひとりで全部出来るものなのですか?」
「うん? まあ、出来なくはないですよ。時間と資料さえあれば。すごく手間だけど。なに、新しい風車台の開発依頼なんですか」
「では」
 ヴァートの質問には答えず、黒姫は続ける。
「もし技術者があなたたったおひとりでも、あなたは風車を建てられますか」
 ヴァートは……口を引き結んで黒姫を見返した。
 ヴィンダリア王国を支えている風車。その風車を管理している研究所。そこで研究所はじまって以来の天才児だと言われ、実際一番若くて一番知識もあるのが、ヴァート・エメルダなのだ。
 答えないヴァートに黒姫は言葉を足した。
「技術者があなたひとりしかいなくても、労働者さえいれば風車を建てることは出来ますか」
 それは、とても現実的な話なのだろうと思われた。仮定の話にしては条件がおかしい。この国で風車を建てることは特別で、重要な事業なのだ。
「……いいえ、できません」
 だからヴァートは答えた。
 自分の知識があれば、どんな地形や気候にも合わせて風車を設計することは可能だ。きっとやってみせる。けれどそれには、絶対に必要な条件がある。
「では、あとは何が必要ですか。建設の技師ですか」
「ええ。建てる場所や使える材料にもよりますが、良い風車台を建てられるのは腕の良い技師です。それは確かです」
 得られた答えに黒姫は深く頷いた。
 ヴァートはそれを目を細めて見つめた。彼女は……なにをききたいのだろう。なにが、言いたいのだろう。
「ですがそれらは作業の段階の話です」
 なにを、しようとしているのだ、彼女は。……彼女たちは?
「ほかにもなにか」
「ええ。その前にもうひとつ絶対に必要なものがあります。貴女も知っていると思っていましたが」
 静かな口調でいえば、黒姫は口をつぐんだ。じっと待つ体勢になる。なにかとは聞かず、ただ待っている。あるいは、ヴァートの考えていることに彼女も気付いているのか。
「風車を建てるには、ウィンダリア国王の許可が必要です」
 ヴァートははっきりといった。黒姫は驚きはしなかった。
「ぼくは国の研究所の技術者です。国王の許可のない風車のためには、設計図の線一本だって引く気はありません」
 黒姫はじっとヴァートを見つめていた。
 それ以上彼女は、風車のことをたずねてこなかった。