二章 星を詠む弟子

「フィンダイ……ですか」
 告げられた地名が咄嗟にどこだったか思い出せず、ヴァートはしばし考えた。
 それから、国で一番南の岬のことだ、と記憶を引き出す。
「フィンダイにはずっとむかしから風車があるが、数年と置かず壊れるんだよ」
「はあ……」
「古くからあるものだから、いっそ君の手で新しいものに建て替えてくれないかね」
 なんて、あっさり言ってくれたが、もちろん風車を建て替えるとなるとそう簡単な話ではない。
 フィンダイはここ王都ウィンディスから馬車だと十日くらいはかかるところだ。
 こういっては地元の人にはなんだが、左遷みたいなものかな、とヴァートは冷静に受け止めた。べつに自分は中央にしがみついて出世したいわけではないから、いいのだけれど。年下なのに優秀なのがいると目障りなんだろう。人々の気持ちはわからなくはない。でも反対に僕がなにをどう思っているかは、あの人たちには絶対わからないんだろうなあ、と思う。まあ、いいけど。
 王宮に呼び出されてそんな話を聞き、ここまで来たついでにと大風車台を見に行く。
 もちろん王都にいればどこからでも見えるような大きな風車だが、この町を出るとそうはいかない。雨の日も雷の日も心配して一晩中見守るなんてことは出来なくなる。万が一大風車台になにかあっても、自分のところに知らせが届くのには数日かかる。……そんなところへ、行かされるのか。
 そう、研究所はじまって以来の天才児が、王都から辺境に飛ばされるというのに、自分の将来ではなく王都の大風車台を心配して肩を落としているなんて……誰にもわかるまい。
 けれど溜め息をついていても仕方がない。
 ヴァートは顔を上げると猛然と研究所へと戻って行った。ヴァートの知らない黒姫たちが、それを見守っているとも気付かずに。
 新たな勤務先となるフィンダイの資料を集めつつ、大風車台についての資料も整理しなおしていた。いざというとき自分がいなくても、研究所の人々がこれを見てちゃんとやってくれるだろう。
 王宮の技術者はいまひとつ頼りないが、研究所の仲間のことは信頼している。
 ヴァートがなにを用意しているのか気付いたミールや他の同僚たちも、積極的にヴァートの知識を吸収しようとしてくれた。
 そうして一応の用意が整った一ヶ月後。
 暦は花月から牧草月へと移っていた。旅をするには悪くない季節だ。
 研究所の数名の見送りのもと、ヴァートは自らが作った資料だけを供に王都を出発した。
 研究所や自分の部屋、王宮、そして……。
 ヴァートは御者台からそれを見上げた。国で一番大きな四枚羽の大風車。
「しばらくお別れですね」
 愛する美しい風車に別れを告げた。


 森の国ウィンダリアは、その国土のほとんどが森で占められている。森と林の間を縫うように作られた道は平坦ではない。
 それでも王都と、この道の先にあるウィンダリア最大の港町トスカを結ぶ街道は往来も多く、比較的進みやすいと聞いている。
 自ら馬車を操りながら、ヴァートはそんな街道の様子を眺めていた。
 ……だから。
 見落とさなかったのだろうか。もし自分が気付かなかったら?
 いや、きっと自分は見つけていた。絶対に。
 ごく自然に馬車をわきに寄せる。止まり切らないうちに、そしてヴァートが手を伸ばすより先に、彼女は隣へと乗り込んできた。ヴァートは会話や挨拶よりも先に、手綱を操った。
「……こんにちは」
 少し迷ってからヴァートは当たり障りのない挨拶を口にした。彼女はこくんと頷いただけだった。
 彼女の名前だけはこっそり教えてもらったヴァートだが、彼女はやはり黒姫で、謎の存在であることに変わりはなかった。
「貴女はここで僕を待っていたんですか」
 たずねると黒姫はこくんと頷いた。
「僕と話をするために?」
 さきほどから口を利かない黒姫にわざとそんなふうに話をふると、彼女は少し、首をかしげた。
「特にお話しすることはないのですが」
 ……そして彼女が口を開いたのは、ヴァートの作戦勝ちだろうか。
「トスカまでご一緒させてください」
「はい?」
 返された言葉にヴァートはまじまじと隣を見下ろした。
「港町トスカまで、ですか」
「はい。フィンダイまでは行けません」
 いや、自分はそこまで期待して言ったのではないのだが。
 ヴァートは微笑んで、旅の道連れになった黒き娘と目を合わせた。
「貴方とならどこまででも喜んで」
 黒姫は微笑み返すことなく、ただ黙ったまま頷いた。