二章 星を詠む弟子

 はやく、と追い立てられて、ヴァートは仕方なくトスカの町を出立した。おかげでゆっくり彼女と別れの挨拶を交わすこともままならなかった。ひとりで走らせる馬車はなんだか逆に重くなったように感じられた。
 さて、王都ウィンディスから港町トスカまでは、南へと下るイメージだったが、トスカから目的地のフィンダイまでは、西へと海岸沿いを進んでいくことになる。
 けれど海岸沿いといってもこのあたりには砂浜なんていう美しいものはなく、ほとんど森がいきなり終わって崖になり、はるか下のほうで波がうちつけているのが当たり前の光景だ。
 わずかに湾になったところに船をつなぎ、漁業を営んでいる集落もあるらしいが、地図にはほとんど載っていない。
 一応街道が整っているのは、この先の岬にある灯台を兼ねた風車のもとにできた町、フィンダイと、トスカや王都を結ぶためだ。途中で出会うのは護衛の傭兵を連れた商隊がわずか。人の往来はそれだけだ。
 予想通りの行程を、ヴァートがひとりで馬車を走らせていると、道端で少年と少女がこちらを待ち構えているのが見えた。
 おや、と思ったものの、きっとこちらが馬車だから商隊と見間違えているのだろうと考えた。
 近くまで寄ると少年は……あるいはヴァートとさほどかわらないかもしれないが、彼はあまり労働者といった雰囲気ではなく、近くで見れば明らかに商隊とは異なるヴァートの馬車に、落胆する様子もなかった。むしろヴァートの外套を見て表情を明るくした。
「あんた、お役人さん?」
 馬車が止まるより前に、身を乗り出してくる。
 彼の言うお役人さんとは、おそらく王宮に勤めている人々のことを指しているのだろうから、自分はその中に含まれないはずだ。といって説明してもすぐに理解してもらえるとは思えない。ヴァートは研究者で、王宮にいる頭の固い大人たちとは違うのだ、なんて。
「ちょっと違いますけど、似たようなものですね。なにかお困りのことでも?」
 そうか、やっぱりな、と一瞬喜んだあと、彼は表情を変えた。
「なあ、王宮っていうのは、星の観測はしないのか? 月の運行とかは?」
「はい?」
 いきなり飛び出してきた単語にヴァートは目を丸くした。
「あなたは星を見るのが好きなんですか。いいですね」
「好き……だけど、言ってるのはそういうことじゃない! 凶星が見えるって言ってるんだ!」
 馬鹿にされたと思ったのか、少年は顔を上気させて怒鳴ってきた。そんな彼の服の裾を、連れの女の子が引っ張っている。
 彼女は少し年下のようだけれど、妹といった感じではない。この辺りの集落に若者が大勢いるとは考えにくいから、数少ない友達というか、幼馴染みのようなものだろうか。にしては、ふたりの服装はずいぶんと違う。
「凶星? あまりよい響きではないですね」
「当たり前だ! まったくこの国はなにをしてるんだか! ぼくたちの国を示す星が、今にも燃え尽きそうだっていうのに!」
 少年が叫んだ。
 あまりにも必死の様子は彼が無知の子どもゆえなのか? 妄想に囚われているゆえか? それとも……誰も知らない未来を、彼は本当に見ることができるのか?
 彼の後ろで少女が服を引っ張る。もうやめなって。そんな彼女のことを鬱陶しそうに手で払う。あるいは彼は、ここを通る誰かを捕まえては、こうして訴えてきたのかもしれない。
 まだ誰も知らない、凶星とやらのことを。
「面白い意見です」
「面白がってるんじゃない! ぼくは大真面目だ!」
「その言葉にうそはありませんね? もしくだらない戯言だったら承知しませんよ。僕は見た目に反して実はちょっと偉い人なんですから。君たちにはわからないと思いますけど」
 少し声を落として内緒話をするように告げると、少女のほうはぎょっとした顔をしたが、少年はむしろにやりと笑んだ。
「そのほうがこっちも好都合だ。下級役人じゃ話にならなくて困っていたところだ」
 少年の言葉にヴァートは声を上げて笑った。
「あははっ! そうでしょうね、この辺にいるような人では、ね」
 くすりと笑って同意すると、彼はますます調子に乗り、後ろの彼女はますます青ざめた。
「ところで君」
 ヴァートはわざと高飛車に、その少年を見下して言った。少年と少女はびくっと身をすくませた。どうやら下級役人をいままで捕まえてきたのは嘘ではなさそうだ。そして……ひょっとしたら、痛い目にあわされたことがあるのかもしれない。
「……なん、で、しょうか」
 ヴァートのことを認めたのか、とりあえず話を聞いてもらうまではおとなしくしようとでも思ったのか、彼は改まった口調で答えた。
「君たちはどこの出身? 彼女とちがって君は働くには不向きな装いだけど、なにをしてるのかな」
 そんな見た目のことなんて、と怒るかなと思ったが、意外なことに彼は少し口をつぐんで答えを渋った。
 こう言っては何だが、こんな辺境地域で彼くらいの年の男性なら、もう立派な稼ぎ頭のはずだ。
「ぼくは……ぼくは、星の観測をするものだ。将来はきっと……国立天文台をつくるんだ!」
 ヴァートは吹き出しそうになったのをかろうじて押さえた。まるで子どもの夢物語だ。だけど、夢も希望もない大人より、数段マシでもあった。
「ふうん。志は立派だけど、それでどうやって生計を立ててるの? まさかその歳でもう他人に頼ってる?」
 この場合正確には、まだ頼ってる、のほうが正しいだろう。彼は学者にありがちな、自らの信条だとか信念だとかのためには驚異的な行動力を発揮するのに、それ以外のことになるとまるで何もできないタイプなんだろうな、と思ったのだ。研究所の偉い人にもそういうのがいて、まあそれを否定するわけではないけれど、ああはなるまいと思ってしまうヴァートなのだ。それでも研究にかける情熱は、頭の固い王宮の人たちよりよっぽど生産性を伴うのだ。肝心なのはそれを活かせるかどうか。
「面白いですね。これでも僕は王都で大勢の学者と面識があるんですが、君にはちょっと興味がわきました」
 言うと彼は一瞬きょとんとして、それからみるみる目を見開いた。
 そういう希望の光を宿す目は嫌いではない。
「僕は仕事でフィンダイに向かうところです。しばらく王都には戻りません。君が望むなら僕の弟子に迎え入れましょう。役に立ちそうなら王都に戻るときに連れて行ってあげます」
 身を乗り出す彼に、ぽかんと口を開ける少女。まさかこんなうまい話が転がっているとは彼らも思っていなかっただろう。
「ただし」
 ヴァートは、ときにかわいいとまで評される笑顔できっぱり言った。
「使えないと判断したら今日明日と言わず、見捨てます」
 きゅ、と彼が口許を引き締めた。いいところだけ聞いて調子に乗るのではないようだ。ヴァートの本気を彼がちゃんと嗅ぎ取ったのだとしたら、彼は本当に使える人材になるかもしれない。ヴァートはにっこりと微笑んだ。
「時間に猶予はないですよ。決めるのは今。僕と来ますか、未来の天文学者さん?」
 答えは、聞かずともわかっていた。