二章 星を詠む弟子
「本当に君は、なんにも役に立ちませんねぇ」
ヴァートは呆れると通り越して、感心して言った。
「しみじみ言うなよ! 年寄りくさいぞ!」
「達者なのは口だけなんて、王宮じゃ一番使えません」
ある種の実感を込めまくって言ったので、ヴァートの声はやや低いものになり、向かいの少年はぐっと身につまされたように言葉を飲み込んだ。
「この辺りの地理くらいは頭に入っているんでしょう?」
「あ、ああ、まあ……」
「はいかいいえで答えてください。曖昧に濁すのは答えを持ってない馬鹿か、相手を馬鹿にした馬鹿ですよ」
少女と間違えられそうなかわいらしい顔をしたヴァートが、澄ました顔で馬鹿を連呼するので、隣の少年は目を瞬かせて見返した。
「……あ、はい」
「素直でよろしい。未来が見えても目の前が見えないのでは、役に立ちませんからね。わかるでしょう、ツァイ?」
「……はい」
名を呼ばれた少年は、どこかしぶしぶと頷いた。この風車技師を名乗る子どものような学者が、さくさくと正しく鋭く言うのを、田舎の少年はちゃんと理解しているらしい。
「ここが港町トスカ、君を拾ったのがこの辺り、さきほど左手に見えた景色から、今はこのあたりを通過しているものと思われます」
「……はい」
「目的地のフィンダイまで、あとどれくらいかかるでしょう」
「え……それは……」
ツァイが眉を寄せる。
ヴァートと彼らが出会った場所のすぐそばに、ツァイの住んでいる村はあったそうだ。なのにツァイはトスカの位置もフィンダイの方角も分からなかった。これは相当だな、とヴァートは思った。
ツァイはじっくり地図を見つめてから。
「単純に同じ調子で進めるなら、今日中に着くってことか?」
「はい、そうです」
ヴァートはにっこり微笑んだ。救いなのは、彼の場合ただの無知であって、馬鹿ではないということだ。本当に今まで周囲に使えないのが多くて嘆いていたぶん、鍛えれば使えそうな人材に巡り合えたのは単純に嬉しい。ツァイがどう思っているかは知らないが。
「でも言っておきますが、フィンダイに入ってからのほうが大変ですから」
「そ、そうなのか?」
「はい。覚悟しておいてください」
ヴァートの笑顔がこわい、ということを早くも学習した少年が、そうっと視線をはずして前方を見た。
馬車はがたがたとゆれている。手綱を取っているのはヴァートだ。ツァイが乗馬はおろか、荷馬車の手綱も取ったことがないと知ってヴァートは呆れたものだが……これも学者にはよくある話だ。
研究のほかのことに時間と労力を浪費するのがもったいないと彼らは言うが、誰より研究熱心なヴァートは乗馬も料理も人並み以上にこなす。もちろん練習にはそれぞれ時間をかけているから、要は要領と効率の問題なのだ。あとはやる気と感性。
「乗馬は難しいので興味のない人には勧めませんが、馬車くらいは扱えたほうがいいですね」
「……必要か?」
前を向いたまま言うと、ぼそりと隣から反応が返ってくる。
「ええ。たとえば君は凶星のことを知っていたのに、ただひたすら話のわかるお役人を待っているしか出来なかった。王都にでもトスカにでも、役所があるところに直訴にも行けず」
ツァイがむっとした。
彼の場合は行けなかったというよりは、思いつかなかったのかもしれないが。
「もし君の星詠みが正しくて、もうすぐ川が氾濫するとわかったら? 安全なところまで逃げるのに馬車が必要かもしれません。馬車があれば食糧や薬を持って逃げることができるでしょう? 子どもやお年寄りを乗せることができるでしょう? 考えれば考えるほど必要です」
「そりゃ」
ツァイが横から口をはさんだ。彼の意見を聞くためにヴァートは言葉を止める。
「そりゃ、なんだってないよりはあるほうがいいさ。でもそんなこと言ってたらキリがない」
「もちろんそうです」
ヴァートは頷いた。木々の間を縫う道が、わずかに登っている。
「欲を言っていたら確かにキリがありません。それに、僕たち人間がこの両手で出来ることなんて、たいしたことはないんです」
その科白を聞いたのが王宮や研究所の人間だったら、ひとりでなんでもこなすヴァートのことを知っている人だったら、嫌味だと思ったかもしれない。でも、天才児と称されるヴァートは自身の力の足りなさをよくわかっていた。
「……だから出来ることはなんでもやれって?」
ヴァートの言いたいことがいまひとつ読みとれないらしいツァイが、怪訝な様子で訊ねてくる。
出来ることはなんでもやる。
そう、ヴァートはなんにでも努力してきた。それでも出来ないことは多すぎる……。
ヴァートは隣の少年を見た。自分と目線の高さが同じ相手と話をするのは久しぶりだ。
いきなり目があって驚いているツァイに、にこっと微笑みかける。
「まあ、センスがあるかどうかは努力だけでは補えませんが」
「わざとかそれ。嫌味だな」
ツァイは頬をややひきつらせてそっぽを向いた。センスがないと言われたと思ったのだろう。あるいはそう自覚しているのかもしれない。
ヴァートが軽く馬に鞭を入れる。するとゆっくりになっていた速度が少し回復する。
「……ここ、登ってる?」
「ええ、少し前から。重い荷を引いている馬は、登り坂になると速度が落ちます。少しくらいは問題ありませんが、こうだらだら続くとだんだんゆっくりになるので、鞭を入れてやらないと止まってしまいます。それを君は、馬がかわいそうと思いますか」
「え?」
いきなり振られた話の内容に、ツァイが目を丸くした。が、ヴァートは気にも留めない。
「かわいそうなことではありません。止まってしまったら、再び歩き出すほうがよっぽどしんどいのです。経験ありませんか?」
「うーん……」
「……なさそうですね。君って本当に役に立つんですか」
わざと見下ろすように言うとツァイは黙り込んだ。
初めのころはうるさいとかなんとか言い返していたのだが、そろそろ観念したようだ。この少年がどんな才能を持っていて、どんな知識を蓄えてきたのか、ヴァートは知らない。あるいはこんな田舎にいるべきではなく、王都にこそ必要な人材かもしれない。でも、たとえそうであっても、今の彼をそのまま王都に連れて行ったら、きっと中途半端だと思うのだ。どんなに知識や技術があっても、周囲より多少優れていても。
人間一人なんて、無知でちっぽけなものだ。
自分が無知であると、学者は知っていなければならない。
……と、ヴァートは思う。ツァイがそれを理解して、それを受け入れたら、王都に連れて行ってもいい。そうでなければ逆にこの小さな才能を潰してしまうだけだ。
「え……あれって」
「はい、そうです」
前方に見えてきたものに、ツァイがぽかんと口を開けた。森の木々の向こうに、突然風車が現れたのだ。
「どうです、あれがこの国の自慢の風車です」
「お、大きいんだな……」
「あれはそうでもないですよ。まあ、あれに驚いているようでは、僕はこの国の民なんて認めません」
ぎょっとした顔のツァイにヴァートは苦笑した。本当にヴァートはそう思っていたのだけれど、彼に出会ってそれが間違いであると知ったのだ。森の中に住む人々は近くになければ風車なんて見たことないということが、ありえるのだ。確かにトスカを出てからここまで、一台も風車を見なかった。建てられるような立地もなかった。
「すみません、言いすぎました」
「あ、ああ……」
「ただ風車の素晴らしさを認めない人は、さすがに王宮にはいませんよ。知っておいてください」
初めて見る風車を見上げていたツァイは、嫌そうな顔をしてヴァートを振り向いた。
「わかったよ。ちゃんと弟子らしくするって!」
久しぶりに怒鳴り返してきたツァイに、ヴァートは笑顔で頷いた。
「はい、頑張ってください。期待していますよ」
ちぇ、と呟いて再び風車を見上げる。そんな彼の前に立ちはだかる王都、という門は、この風車よりきっともっとずっと、高いのだ。