三章 風と炎が出会うとき
ガルシアは太守館から出ると、辻馬車があると聞いたほうへと急いだ。太守館から歩いてすぐのところだ。
「あ!」
片眼鏡を押し上げて、ばたばたと走り出す。
その気配に気付いたのだろう、ガルシアの視線の先で、少女が振り向いた。
「またお会いしましたね!」
声をかける相手は黒い制服の娘。ガルシアを見返す黒い瞳には、なんの感情も浮かんでいないように見える。
「あなたも王都へ?」
駆け寄って並ぶと、大人と子どもにしか見えないが、ガルシアは少女を子ども扱いなどしなかった。
黒の少女はちらりと馬車に目をやったが、首肯することなく黙ってガルシアを見返した。
御者の男が顔を出した。
「出発するよ、そこの兄ちゃん、乗るのかい?」
「えっ? あ、はい、王都へ行くんですよね、これ?」
「そうだよ、乗んな!」
「はいはい乗ります」
ガルシアはへらへら答えると、黒の少女に向かっておかしな手招きをした。
「ほら乗りましょう。ご挨拶は馬車の中でゆっくり……」
今にも彼女の背中を押して乗り込もうとするガルシアの前で、少女はゆっくりと、でもきっぱりと首を振った。
「へっ?」
きょとんとしたガルシアに、再び御者が顔を出す。
「ほら兄ちゃん、時間だよ!」
「えっ! あ、わ、すすす、すみません! 大変です、忘れてることがありました!」
「はあ? なんだよ、乗らないのか。じゃあ行くぜ」
ガルシアがすみませんとぺこぺこするのを見もせずに、御者は馬に鞭を入れた。
ふたりの横を人が数名乗った荷台がのろりと動き出し、がたがたと音を立てつつ遠ざかって行った。
「……はあ」
それを見送ってガルシアは肩を落とした。が、自ら気合いを入れ直して顔を上げ、傍らの少女を見下ろした。身長差があるので、ガルシアは少し腰をかがめて覗きこんだ。
「どうしました? 馬車、行ってしまいましたよ? なにかお忘れ物ですか? は、もしかしてお金が足りなかったとか! えっと……わたしのフトコロでふたりぶんは……。いえ! 銀行に行けばありますよ! まかせてください!」
勢いよく顔を上げ、きょろきょろと周囲を見回す。そこらへんに銀行が……。
「あるわけないですよねぇ。えっと、どこへ行けばお金はおろせますかねぇ?」
再び肩を落とし少女を覗きこむ。
黒髪の小柄な少女はじっと無表情にガルシアを見返していたが、しばらくして小さく、でも大きくため息をついた。
「そうではありません」
少女が小さな声で言った。
「え? ではなぜですか?」
「なぜでもいいでしょう。あなたこそなぜ馬車に乗らなかったのですか。次の便は夕方ですよ」
黒の少女が……まるで無理をして喋っているのを、ガルシアはちっとも気にしたふうでもなく胸を張った。
「女性が困っているのに助けないのを、紳士とは言いません」
えっへん、と自分に酔ったようなガルシアの鼻の上で、片眼鏡がずるりとずれた。いつものようにそれを手で押し上げて、ガルシアは元の笑顔に戻る。
「お金がないのでなければなんですか、忘れ物? もしかして待ち人来たらず?」
思いつくままにたずねるが少女は黙ったまま、背を向けた。
「ひえっ? あ、あの、無視ですかっ? 待ってくださいよぅ」
ガルシアがあわてて追いかける。もちろんすぐに追いつき、すぐ後ろを歩く。
「どこにいくんですか? エスコートはいりませんか? いえいえ、へんな下心はありませんよ、本当ですっ」
ひとりで勝手にわめいてひとりで勝手に焦っているガルシアを、少女はしばらく歩いてやっと……立ち止まり、振り返った。その幼い顔は、少し眉がひそめられている。ガルシアは意味もなく両手をあわあわと動かした。
「ご、ごめんなさい。うっとうしがらないでくださいっ! 女性は繊細で困るなあ……あ! いえいえなんでもないです!」
それでも、少女は何も言わない。
「あの……」
ガルシアが肩を落として少女を見つめる。まるで捨て犬かなにかのようだ。
ひょろりとのっぽの男が、小柄な少女を前にして。
ぐーきゅるるる。
妙に音が響いた。
「……あ」
しぱしぱとガルシアが目を瞬かせる。
「あのー」
ぼりぼりと薄い色の金髪を掻く。それからへらり、と照れたように微笑んだ。
「よろしければお食事をご一緒しませんか」
ずっと無表情のままだったけれど、黒い瞳の少女は困ったように少し、首をかしげた。
風の王国ウィンダリアの最大の商業都市、港町トスカは、明るくて活気のある町だ。
ものが多い町には人も多く集まる。
国柄でもあるのだが、店も人々も開放的な雰囲気であることが多い。
そんな中でこの黒い制服は不思議なくらい目立たなかった。
何でも受け入れるのも国民性だろうか。
目の前の料理をかきこみつつ、ガルシアは頭の隅で考える。考えていると。
「……ぅわちっ!」
口の中に入れたものがものすごく熱くて、悲鳴を上げた。
「あちっあちっ」
ひーひー言っていると、すいっと水の入ったコップが差し出され、ひったくるように水を口の中に流し込んだ。ごくごくあおってやっと一息。
「た、助かりました……」
涙目でテーブルの向こうに礼を言う。それからあらためて料理を指差す。
「これ、チーズですよね」
こくんと目の前の少女が頷く。
「ご飯の上にチーズをのせて焼くなんて、初めて見ました。とんでもない組み合わせだと思いましたが、なかなかイケますね」
こくん、と目の前の少女がもういちど頷く。
ただ、とガルシアは涙目でもう一口水を飲んだ。
「こんなに熱いものとは知りませんでした」
無表情な少女が、わずかに呆れたような色を目の奥にちらつかせたが、一瞬だった。
彼女は食事も頼まず、グラスを前にしているが、それも口をつけたかどうかわからない。
ガルシアはというと只今三人前を完食目前にしている。
「すみません、わたしひとりで食べて。あの、それ、お好きじゃなかったですか、ココナッツミルク」
注文を取りに来た女性が、今だけのおすすめだと言って示した飲み物が甘そうだったので、彼女のために注文したのだけれど。
「……」
ガルシアが覗きこんで返事を待つ。
少女はしばし沈黙のままだったが、やがてためらいがちに口を開いた。
「嫌いじゃないのですが……ちょっと、いまは、理由があって飲めないんです」
「ええっ? そうなんですか? そ、それはかえって悪いことをしましたかね?」
あたふたするガルシアに、彼女はほんの少し、微笑んだ……ような気がした。
ガルシアは最後の皿をきれいにたいらげると、ふーと息を吐いた。
「さぁて、腹ごしらえもしましあし、次こそ王都行きの馬車に乗りますよ!
拳を突き上げるガルシアを、黒髪の少女はじっと見ているだけだった。