三章 風と炎が出会うとき
お手洗いからもどると、彼女はちゃんとそこに座って待っていた。
ガルシアは確かにいろいろ言って引き留めたかもしれないが、嫌なら彼女はいくらでも逃げだせたはずだ、と思う。地の利はあちらにあるわけだし。……本当に?
「いやあ、待っててくださったんですね」
声をかけると黒髪が揺れて振り向いた。グラスの水が少し減っているように見えた。
「次の辻馬車は何時ですか?」
たずねると彼女はガルシアをじっと見返して沈黙を守っていたが、やがて口を開いた。
「夕方です」
「ということはまだ時間がある?」
彼女はこくんと頷いた。
「ではせっかくなので市場で買い物しましょう!」
ガルシアが明るく窓の外を指差す。が、彼女はその指し示すほうに目を向けるでもなく、ガルシアをじっと見返すだけ。
「ななな、なんですか? も、もしかして惚れられてしまったらどうしましょう? やや、でも愛に歳の差なんて関係ないし……。そもそもおいくつ? おおっと! 女性に年齢を聞くのは失礼ですよっ!」
大きな声でぶつぶつと言っているガルシアを、黒の少女は黙ってい見ている。
焦って訂正するでもなく、呆れるでもなく。
「それじゃ、行きましょう!」
「ちょい待ち」
店を出ようとしたガルシアの前に、大柄な、だけどやたらかわいらしいエプロンをつけた女性が仁王立ちで立ちふさがった。
「お会計はきっちり払っていきな」
「あわわわ。も、もちろんです。踏み倒す気なんてなかったですよ、ええ、本当ですっ!」
ガルシアは懐から財布を出すと、きっちり小銭まで払って、そしてふたりはようやく店を出た。
「真珠、あなたに似合うんじゃないですか! ほら!」
露店に並んでいた髪飾りを手に取ると、ガルシアは彼女の髪に当てた。
黒髪に優しい色の真珠がよく映える。
が、その瞬間、彼女が一歩退がった。
「おや? あまりお好みではありませんでしたか? お似合いだと思ったのですが? ふうむ、あなたはもっと地味な……あわわ、いえいえ、もっとおとなしい色がお好きですかね?」
黒の制服の少女は、鼻歌を歌いつつ露店を冷やかして歩くガルシアの後ろにつき従って歩いている。まるで従者を連れて歩いているような気分だ。彼女は制服を着ていることだし。
「あ!」
いくつか目の露店でガルシアは再び足をとめた。
その店では色つきのガラスで絵を描く、神殿の窓などでよくみられるステンドグラスを、そのままペンダントにしたものが売られていた。
「これなんかどうです? 黄昏の女神などは」
どうやら人気の絵柄らしく、赤や黄、その中間の色を用いた黄昏の女神……長い赤い髪の美少年のようにも見える女神像のペンダントヘッドが、いくつも並んでいた。
「きれいですねえ。あなたには小さいほうが似合いますかね」
適当に見繕って、相手の反応などかまわず彼女の胸に押し付け……ようとしたら、ふたたび少女が一歩退がった。
「おう! すみません! 下心はないんですよ、ええ、本当ですっ!」
ガルシアはふたたびわめいて大げさに両手を挙げた。
そして両手を挙げたまま露店に目をやり、顔だけ突きだしてそれを見た。
ずりっとずれた片眼鏡を直すために手を下ろす。
握ったままだった女神像のペンダントを露店に戻し、ガルシアはそれを、手にとった。
「あなたには、こちらがいいですね」
片眼鏡の奥で目を細める。
そうだ、これがいい。この色がいい。
ガルシアはすいっと手を伸ばして、少女の首にそのペンダントをかけた。
一瞬の動きに彼女は反応できなかったのか、わかって反応しなかったのか、おとなしく首にかけられた。
ガルシアの手が離れていったあとで、彼女はガルシアを見上げ、それから視線を落として胸にかかったペンダントを手のひらに乗せた。
そこには女神像はなかった。
丸い……たとえば胸の国紋にも似た大きさの、一枚もののガラス。金色の縁取りに包まれたそれは、濃い紫色。つるりとした表面は鏡のようだが、手のひらの角度を変えても彼女の顔を映しはしなかった。
「うん、お似合いです」
ガルシアは満足して頷いた。
「本音を言うと、あなたがもう少し大人になった頃、きっともっとお似合いになると思います」
にこにこ笑って、それを見上げる彼女がなにか言いたげな顔をしているのにまた満足して、ガルシアは店主に金を払った。
「それでは行きましょう。準備は完璧です。今度こそ辻馬車に乗りますよー!」
ガルシアが意気揚々と歩き出すのに、黒の少女はただ、黙ってついてきた。