三章 風と炎が出会うとき

 夕方の辻馬車は満員だった。
 今日一日をトスカでの商売に費やした人が利用するらしい。
 多少の荷物を抱えているのは、旅支度というよりも、商品の残りといった感じだ。
「こ、この人たちは皆さん王都まで行かれるので?」
 隙間に縮こまりながらガルシアは傍らの同行者にたずねた。彼女は小柄なせいか、すっぽりと埋もれた感じで、目を離すと見失いそうだった。
 その彼女が、ガルシアの問いかけにわずかに首を振った。
「あ、途中で降りるんですね。というか、この馬車、ずっと走り続けるんですか?」
 これに乗れば王都まで行ける、と説明を受けたので乗ったが、港町トスカと王都ウィンディスは、馬車で数日かかる行程だ。
 がたがたと街道を走っていた馬車は、旅籠でもなんでもないところで止まった。
 ガルシアがなんだろうと思って見ていると、荷物を担いだ親父がふたり馬車から下り、御者に何か渡して手を振った。
 馬車が走り出した後も彼らを見ていると、街道から逸れるように森のほうへと歩いて行く。
 あの森の中に、集落があるのだろうか。
 ここウィンダリア王国は国土のほとんどを森が占め、王都でさえ森の中にある。
 他の国から見れば不便そうに思われるのだが、トスカのように開けた町に住む人のほうが少数派らしい。
 だからこの国はこう呼ばれる。
 森の王国、と。
 隣には最先端の技術をもつ光の王国アンデルシアがあり、北は軍事大国サグーンと接している。
 ウィンダリアは伝統があり、国土の広さ、抱える人口など、三大国家のひとつに数えられるに相応しいが、あとの二国に比べると、やや劣っている印象は否めない。
 それでもこの国の人々は……あまり不幸そうには見えない。
 むしろ、自然と共に生きることを楽しんでいるかのようだ。
 そう思って、ガルシアはむっ、と眉をひそめた。
 うらやましいなどとは思わない。思わないが……。
 前方に松明を掲げ、明るく浮かび上がっている建物が目に入った。
 森に入って陽が沈み、あたりはあっという間に暗くなっていたので、それが目立った。
「おや、旅籠ですか?」
 トスカを出たときの半分以下になった乗客たちは、皆その光を見てほっと息をつく。
 それから荷物を引き寄せ始める者と、じっと動かない者にわかれる。
「今晩はこちらで休むのですね。明日の朝の出発は何時でしょう?」
 ガルシアがそわそわする横で、けれど黒の少女は変わらず座ったまま動かなかった。
「どうしました? 降りないんですか?」
 ガルシアが覗きこむと、彼女はようやく少し目を上げた。
 眠っていたのだろうか、まさか?
「……ええ、わたしは降りません。このまま行きます」
「はい?」
 ガルシアは驚いて少女を見下ろした。
 旅籠の前で馬車が止まると、乗客の半分ぐらいが降りたが、残り半分はかわらずじっと座っていた。
 ガルシアひとりが、おろおろとしていた。
「あなたは降りたらいい。強行軍に付き合う必要は、ない」
 黒い瞳の娘が小さな声で言った。ガルシア以外の誰にも聞こえなかったに違いない。
 だから……それで、ガルシアの心はきまった。
 座席と降り口の間をうろうろしていたガルシアは、彼女の隣に戻ってくると、どすん、と座った。
「……?」
 訝しげに顔を向けてくる少女に、ガルシアは鼻を鳴らして意気込んだ。
「あなたが残るのでしたら、わたしもご一緒します」
 もう降りる人がいないとわかると、馬車は再び走り出した。
 乗客は数人になっていたが、誰も会話をするでもなく、眠っているのか目を閉じてじっとしている者が多かった。
 そんな中、彼女は違和感なく座っていた。溶け込んでいるというよりは、いるかいないかわからないようだった。
「女性ひとりを残していくなんて、紳士のやることではありません」
 目があった彼女に言って、格好つけた台詞の割に表情は相変わらずしまりのないへろんとした笑顔を向ける。鼻から片眼鏡がずるりとずれるのを、ぐいっと押し上げる。
「そうと決まれば、腰を据えますよ。王都までは何日かかるんでしたっけ?」
「……この便は、三日後の朝に王都に着く」
「それは思ったより早いですね」
 だから強行軍だと言ったのに、と言いたそうな黒い双眸がガルシアを見返す。しかし彼女は必要以上に喋らない。
 道中あらゆるシステムに感嘆した。
 この国はもっと田舎の野蛮な人々が住んでいるのだと思っていた。
 田舎……は確かに田舎なのだが、この馬車といい、途中の旅籠といい、システムは決して野蛮などではない。
 森が大半を占める不便な国が人口を抱えていられるのは、基礎が出来ているからか、と思った。


 三日目の、朝。
 ガルシアはなによりその巨大で美しいこの国の象徴に、あっけにとられた。
 資料では読んでいたが、現実に目にしないと、この建造物の素晴らしさは伝わらない。伝えられない。
 ガルシアがもし他人に伝えるとしても、すごかったというのが最も適切で、それ以上の言葉では足りないだろうし、それだけで伝わるはずもなかろうと思われた。
「あれが噂に名高き、ウィンダリアの大風車ですか」
 馬車から下りてぽかんとしていたガルシアは、後ろから降りてきた彼女にぽつりと投げかけた。隣に立った少女は同じように大風車を見上げ、わずかに目を細めて……頷いた。返事はそれだけだった。
 彼女が、背を向けた。
「あ、もう行かれるのですか!」
 ガルシアが呼びかけても黒の制服は立ち止まらない。でもガルシアは……追いかけなかった。
「ここまで案内してくださってありがとうございました!」
 呼びかけても、黒髪の背中は立ち止まらない。
 風の王国ウィンダリアの王都、ウィンディス。
 この国最大の町の人の往来の中に、黒の少女は紛れて消えてしまった。