三章 風と炎が出会うとき
王都の夜に、火の手が上がった。
各所で鐘が打ち鳴らされ、人々は眠りから目覚める。
ウィンダリアは森が大半を占める王国だ。
人々は、この森と共存している。森を失うことが、生活の礎を揺るがすことになること、この国では子どもでも知っている。共存であり、依存でもある。そして、共栄たりえることも、ある。
鐘が、打ち鳴らされている。
水は南方のトスカへと続くわずかな河川があるものの、それは主に生活用水に利用されており、防災用としては貯水池が整備されていた。
森の中の集落には、どんなに小さくとも貯め池のふたつみっつは用意されており、雨水を貯める施設は珍しいどころか、あちこちで見かけることが出来た。
鐘が、打ち鳴らされている。
防水マントをかぶった人々……男だけではない、女も子どもも文字通り総出で水を運んでいる。
森を守ることは、町を、集落を守ることだ。自分たちの生活を守ることだ。彼らにその意識がなくとも、それは国を守ることに繋がる。そして森を失えば、それらすべてが失われる。
「……案外、脆いな」
祖国の堅牢な宮殿に比べるとずいぶん小さいが、それでもこの国では一番大きいであろう、横長の台形をしたウィンダリアの王宮の屋上に立って、彼は王都を一望していた。
規則的な部分もいくらかはあるが、大半は周囲の森に合わせた自然のままの曲線を描いた街並みだ。
それは見方を変えれば不便極まりないうねりでしかない。
そこに美しさは感じられない。
鐘が、打ち鳴らされている。
響き渡る音は王都だけではなく、周辺の集落へ、そして国中へと鳴り響くのだろう。
それはやがて。
「この国の終焉を知らせる鐘となる、てね」
王宮は、町からは離れた少し小高い所に建てられている。
眼下の炎が広がる町を見ても、なんの感慨もない。この町には、なんの愛着もない。
「まあ、この大風車は残っていてもいいかもな。廃墟に聳え立つところもまた、さぞ美しいだろう」
振り返り見上げる大風車は闇の中に佇み、けれど町を襲う炎に照らされて、ゆっくりと回る四枚の翼を仄赤く浮かび上がらせている。
「……ここに、いたのか」
そんな、闇の中から声がした。
低い声。けれど……どこか幼い声。小鳥のようにさえずって、けれど、不吉な知らせを運んでくるようだ。
炎が照らしているにもかかわらず、闇の中の姿は視界にとらえられない。闇に溶け込んでいる。まるでそれが当然のように。
それに対して自分は、同じような黒のマントに身を包んでいるにもかかわらず、きっと浮かび上がって見えることだろう。明るい炎のもとで、消えてしまう自分ではない。紫の炎と、時に人は自分を例える。
「ようこそ、特等席へ」
マントの裾を掴み、腰を折って優雅に礼をする。
氷のシャンデリアの下で娘たちに向けるのと同じ笑みを浮かべて出迎える。
「鴉の娘よ」
鐘が、打ち鳴らされている。
町はもう、人の町ではないだろう。生き物が皆、炎を恐れるのは、知っているからだ。炎はすべてを灰燼に帰す。人の力とて炎の前では無力。
「何が目的だったんだ、ガルシア・ガルガリン」
闇の中から少女が現れた。
ガルシアが一度も名乗らなかった名を、口に乗せて。
「俺の名を知っていながら、まだそんなことをいうのか、おまえは?」
相手を馬鹿にしたように唇を引き上げる。ゆるいくせ毛の薄い色の金髪に縁取られた顔が、黒き娘を見下ろす。
紫色の瞳を細めて、男……ガルシアは言った。
「鴉の娘とはもう少し優秀なのかと思ったが、そうでもないな」
「なにが目的だ、サグーンのガルガリン。この国を、滅ぼしに来たのか」
ガルシアの嫌味など意に介さず、黒の少女はこの明白すぎる質問を重ねた。答えは目の前に広がっている。
「ご名答。だが気付くのが遅かったようだな」
薄く笑みを張り付けたガルシアの前に、黒の娘は立った。彼女の胸には木を象ったウィンダリアの国紋と、黒い鳥を象った紋が並んでいる。
「遅かった? なにがだ?」
まだ子どもといっても差し支えないだろう少女は、鴉の娘と、あるいは黒姫と呼ばれる黒の制服を身にまとっている。
「俺がガルシア・ガルガリンだと気付くのが、かな?」
わざと肩をすくめて見せたが、黒の少女は表情を変えなかった。いや、少し、首をかしげた。
「すぐに、わかったさ」
「ほう? それはまたどうして?」
ガルシアは面白そうにたずねる。彼女はどうやら律儀に答えてくれるらしい。
「理由なんていくつもある。わたしに声をかけた。それが第一だ」
「はん? べつにおまえなんぞ、隠れもせずに歩いてただろうが」
「だが普通の人間なら声をかけない。だから貴殿は平民ではない」
「平民、ね」
くっ、と笑った。ガルシアは、確かに平民ではない。
「おまえも平民とは言い難いな、闇の申し子め。この国は鴉の娘が多くてうんざりする」
「……それも、普通は気付かない。気付く時点で貴殿は要注意人物だ」
鉄面皮のはずの娘が、どこか呆れたような顔をした。
「なるほどね。だが平民にだって鋭い奴はいるぜ」
「そうだな」
ふっと彼女は息をついた。
鐘が……止んでいた。鳴らしていた人間も逃げたのだろう。
町にはもう、炎しかない。この町は。この森は。もう。
「貴殿は、名を名乗らなかった。わたしに名をたずねなかった。一度も。不自然だ」
ガルシアは目を細めた。
そうかもしれない。
下層の平民は、姓をもたない。ある程度の家でなければ姓は名乗らない。姓をもつものは家の名を背負っている。
名とは、重要なものだ。
だからなのか、鴉の娘は名を名乗らないと聞いていた。
そしてガルシアも、名を名乗らなかった。
「だから俺の名には意味があると思ったのか」
「まあ、それもあるが。貴殿はもっと簡単なヒントをくれたので」
今度は彼女のほうがわざとらしく肩をすくめた。
ガルシアは思わず眉をピクリとひきつらせた。
ガルシアの変装は……あの性格のガルシアは、今ではもう一人の自分になっているというのに。
「ウィンダリアに来たのは初めてか。この国では、銀行とは言わないんだ。それはサグーンとそれより北の国でしか使ってない言葉だな」
「な……」
ガルシアは驚いた。そんなことを指摘されるとは思わなかった。
「は……鴉の娘は情報収集機関だと言っていたな」
なるほどな、とガルシアは頷いた。国では彼女たちについて詳しいほうではあったけれど、接触したことは実は初めてなのだ。知らないことは山ほどあるに違いない。
「なのに貴殿はアンデルシア人のふりをしていただろう」
続けて紡がれた彼女の言葉に、ガルシアは今度こそ絶句した。
そんなこと、口になどしなかったのに。
子どもだと思って近づいた相手は、ガルシアの想像を超えていた。
あの能天気で間抜けなガルシアを見て、アンデルシア人のふりをしたサグーン人だと見抜かれてしまった。
「そんなに……驚くことかな」
少女がぼそりといった。
「貴殿はわたしに隠れて……終始くっついているように見せかけて、トスカでいろいろ小細工をしてたじゃないか。わたしが鴉の娘だとわかって接触したのなら、あのくらい気付かれるとわかったうえでやっていたんだろう?」
ややくだけた口調になった少女を、ガルシアは片眼鏡の奥から睨みつけた。
「わかっているさ。女は華やかなのがいい。おまえらのような陰気臭い女どもは嫌いだ。そっちこそ俺のいないところで、他の鴉の娘と接触していただろうが。俺が気付かないとでも思ったのか」
ガルシアの紫水晶のごとく鮮やかなのに深い色の瞳に臆することなく、黒の少女は首を振った。
「もちろん、わかっている。お互いさまだ」
「お互いさまだと?」
ガルシアが目を細めた。完全に、相手を馬鹿にした表情だった。
「ぬかせ。ではなぜ、この国は燃えている」
鐘は、鳴っていない。
人々の声も気配もない。聞こえてくるのは火のはぜる音。でもそれは決して暖炉の前で安らぎをもたらしてくれるような、心地よいものではない。霧雨に似たじわりとまとわりつくような……熱気。意識するとやや不快感を伴う。
「なぜ、と問われる意味がわからない」
森と調和していた王国の首都が、目の前で燃え尽きようとしているのに、黒の娘は顔色を変えずに問うた。
「おまえたちは俺のしたことを見過ごしていたと、そういうことだろうが。まんまと国を焼かれて、いい名折れだな」
勝ったのは自分だ、とガルシアは思うのだが、なぜか苛立つ。きっと彼女が……この国で唯一自分の計画の障害になりそうだった鴉の娘が、少しも悔しそうな顔をしないのがいけないのだ。それどころか、道化のガルシアにも付き合っていたのだと、何食わぬ顔で言い放つ。
「国、か……」
少女はガルシアから目をそらし、すでに街並みもわからない炎の海を見下ろした。
「この国は、わたしたちの国ではない」
「はあ?」
「知って……知らないのか? わたしたちは、どこの国にも属していない」
抑揚のない声で、さも当然のように呟いた。
所詮他国の事情ではあるが、ガルシアは一瞬何とも言えない気持ちになった。まさかそれが、ウィンダリアというたったいま自らが滅ぼさんとしている国に対する同情だとは、認めたくもない。
「黒姫ってぇのは……」
かわりに頭をもたげたのは。
「ずいぶんと身勝手なんだな」
彼女たちに対する不審。いや、単なる、不快。
「ならばなぜ」
ガルシアは指差した。
黒の制服の胸の一点を。
「この国の紋をつけている」
黒のガルシアの指先をなぞるように、少女の視線がそこへ落ちた。そして、ああ、と気のない声を漏らす。
と、あっさりそれを外してしまった。木を象ったウィンダリアの国紋を。
「国紋ってのはどの国でも意味は同じはずだぜ。その国に忠誠を誓う証だ。そいつを胸につけるために人は多かれ少なかれなにかを犠牲にする。そういう覚悟が必要な代物だ、国紋ってのは。あんたのその、黒姫の紋だってそういうモノだろうよ」
ウィンダリアの紋を指先で弄ぶ少女の胸には、鴉……黒い鳥を象った紋が鈍く光っている。
「……そうだな」
黒い瞳の娘は、そして、緑色の木の紋を……手放した。
小さな手から離れたそれは足元に落ち、跳ねてガルシアの前まで跳んできた。
ありえない、と思った。
平民なら畏れ多くて出来ないだろうし、ガルシアのように国の担い手であると自覚のある貴族や王族の人間なら、自らのみならず一族の進退に関わる大変なことだ。
なのに彼女は、あっさりとやってのけた。
そして投げ捨てた紋には目もくれず、たいした感慨もなさそうに町に目をやる。
ガルシアは思わず、その他国の紋を拾い上げた。
持っていれば役に立つとか、そんなことは頭になかった。生まれてきた瞬間からサグーンの国紋を持っていたガルシアだけれど、自らの家の名と同じく、この小さな国紋がいかに重要なものか、叩き込まれて生きてきたのだ。
はじめて触れたウィンダリアの国紋を丁寧に手のひらに乗せる。
「間違いなく本物だ。国王陛下にから頂いたからな」
さらりと告げる少女の横顔を、ガルシアはぎりっと睨み付けた。
ガルシアからの害意など意に介さず炎に包まれた町を見下ろしていた少女が、目を転じて、背後に聳え立つ風車を見上げた。
つい、ガルシアも同じように見上げてしまう。
町の入り口から遠目に見たときも美しかったが、こうして足元から見上げても美しい。
この技術は素晴らしいと思うが、はたしてそれも、この国と命運を共にし、世界から消えていくのだろうか。だとしたら、少しだけ惜しいような気がした。まあ、ほんの、少しだ。
「わたしは、この風車だけは好きだった……」
ぽそり、と彼女が呟いた。
その声にガルシアは彼女に目を戻……そうとして、愕然とした。
黒の少女、あちらはガルシアの名を知っているのに、結局彼女の名前には触れることのなかった鴉の娘は、すでにその場にはいなかったのだ。
取り残されたような、喪失感。
なぜ。
勝ったのは自分なのに。
ガルシアはこの国を滅ぼしてやったというのに。
ぎゅっと手を握りしめる。黒の娘は消え、ウィンダリアの国紋がこの手に残された。これはどういう意味だろう。
まるで負けたような、釈然としない気持ちでガルシアは踵を返した。
胸で一瞬、車輪と羽を象った紫色のサグーンの国紋が、きらめいた。