四章 終焉の鐘の音

 鐘の音に、ツァイは飛び起きた。
 起きた途端に襲った全身の筋肉痛に顔をしかめるも、それどころではないと思ってベッドから降りる。
 窓から身を乗り出して森を見たが、とりあえず近くに火はない。
 だからといって安心は出来ない。
 鐘の音がする。
 よくよく耳を澄ませば、音は遠い。
 けれどこれは自分たちの国の生命線だと、ツァイは知っていた。ウィンダリアの人間なら誰でも知っている。風と森の国、全体に整備されている鐘……それは火事を知らせる音。
 部屋から飛び出して、いま自分が向かうところはどこだ、と考える。
 自分が指示を仰ぐべきは……師匠だ。
 ほんの数日前に道端で自分を拾ってくれた人。
 聞けばたったひとつ年上なだけだった。
 女の子みたいな可愛い笑顔を浮かべるくせに、こっちの痛いところをさくさく指摘してくる。
 研究者だといって、普段はツァイにはさっぱりわからない図面を前になにやら計算ばかりしているくせに、現場に出てくると体力も運動神経もツァイよりずっとあるという、なんだかひどく不公平を味わわされる人だ。
 おかげで弟子の自分はそれに付き合って全身筋肉痛という憂き目にあっている。
 でもこの頭のいい師匠は、いままで誰一人として相手にしてくれなかったツァイの話を、管轄外なのでよくわかりませんが、とか言いながら真面目に聞いてくれる唯一にして初めての相手だった。
 だから、師匠と呼ぶことにした。
 師匠はだから……いま、どこにいるんだろう。
 あの人は王都からやってきた学者で、小さくて子どものようだけれど、ここの責任者だ。
 なら現場の指示を出す人間はどこにいる?
 ツァイは走り出した。
 上だ。
 もしどこかで炎が上がっているのなら、それが見えるところだ。
「師匠!」
 ためらわず最上階に飛び込んだツァイは、叫ぶと同時にあわわと口を押さえた。
 そこには師匠……ヴァート・エメルダその人と、技師やら何やらたくさんの人がいて、彼らが一斉にツァイを振り返ったのだ。
「おや、ツァイ、来ましたか」
 意外だとでもいうのか、ヴァートがこえをかけてきたが、まるでいつも通りの口調の中にほんの少し、ほんのわずか、焦ったような色がにじんでいるのを感じ取り、ツァイはぎょっとなった。
 師匠は頭がいいので、星なんか詠めなくても先のことを見通してしまうことが多々あって、だからいつも余裕のように見えるのに。
 この人が焦っている。
 それがツァイを緊張させた。
 ちょっと失礼、といって小柄なヴァートがこちらへやってきた。
 並ぶと身長も細っこい体格も似ていると思うのだが、どうしてこうも中身はちがうのだろう。
「よく起きてきましたね」
「馬鹿にするな。鐘が鳴ってるじゃないか」
「なるほど、腐ってもウィンダリアの子というわけですね」
「誰が腐ってんだよ」
 寄ってきたヴァートと小声でやりとりをする。
 心ひそかに彼のことを尊敬し始めているツァイではあるが、口を開くとこんな調子だ。
「ところでツァイ。君はいま、星が詠めますか」
「は? ……ああ、火事なのか、やっぱり? 近いのか?」
 危険なのだろうか、ヴァートの表情が強張っているように見える。
 この人がこんな余裕をなくしているのを、見たことがない。
「近いのなら、いっそ良かったかもしれません」
「は?」
「先日、君は言いましたよね」
 呟くように言うヴァートにツァイは冷や汗を感じた。
 星を見て、憤ったのは自分だ。
 星が読めたってどうしようもないと思ったのも事実だ。
 でも恐怖は感じなかった。自分は、わかってなかったのかもしれない。星が示す、本当の意味を。
「な、なんだよ。どういうことだよ」
「火事ですよ」
 ヴァートがまるで当たり前のように言った。
「燃えているんです」
「どこがだよ。近くじゃないって、じゃあ北? 国境のほう? まさかサグーンが?」
 ツァイたちがいるのはウィンダリアの最南端の岬町フィンダイだ。
 そして東隣は光の王国アンデルシア、北隣には軍事帝国サグーンがあり、もちろんほかにも小国がいくつもあるが、一般にはこれらが三大国といわれている。
 アンデルシアは中でも最も発展しており、ゆえにどことも表立っては対立していない。
 けれど鉄鋼業の発展に力を注ぎ、軍事帝国と呼ばれているサグーンは、周辺の小国だけでなく、このウィンダリアを虎視眈々と狙っているともっぱら噂だ。
 森の王国ウィンダリアは、一応軍はあるものの、あまり争いごとに向いている国民性とは言い難い。
「それならまだ打つ手もあるんですが」
 ヴァートが微笑んで首をかしげた。
 困ったような顔が妙にかわいらしい。
 この人が、打つ手がないと、言っている?
「じゃあ……」
 呆然として師匠を見返した。
 師匠は、困りましたね、と冗談のように言った。
「燃えているのは、王都ウィンディスです」
 つまり。
 ツァイには憧れだった王都、森の都ウィンディスを目にするという夢が、ここで絶たれた、ということを意味した。