四章 終焉の鐘の音
サグーンとの国境沿いだ、と聞いたのに。
ここから聞こえてる鐘の音はどんどん南のほうへ広がっている。
おかしい、と思う。
森の中だと聞こえてくる方向が分からなくなることはあるが、海を背にした風車の上にいれば、惑わされることもないはずだ。
「師匠!」
いまでは引き留められるどころか、見張りすらいない風車を滑り降り、こちらへ向かって来たヴァートへと駆け寄った。
「おや、いないと思ったらこんなところに」
目が合うとヴァートはにこっと笑いかけてきた。
「昼でも君の眼には星が見えるのですか」
牧草月の青い空を師匠が見上げる。
「星じゃなくて鐘の音。なあ、北の国境沿いって、あんたは行ったことがあるのか? 遠いのか? そっちの音はいまここまで届いているのか?」
まくしたてるようにたずねると、風車技師の師匠はおやおや、と目を丸くした。
「またまた。僕の弟子がいっぱしのことに気づいちゃいましたね?」
「……え?」
茶化して話をそらしたのかと思ったが、そうではなかった。反対だ。どうやら、ど真ん中だったらしい。
「ええ、いま僕も聞いてきましたよ。トスカが大変なことになっているらしいです」
「は? トスカ? って、東の港町?」
「ええ、そうです」
ヴァートの口から出てきた地名にツァイがぽかんとする。
王都は内陸の町だった。それから北の国境と聞いていた。
大変だということはわかるけれど、どちらも行ったことのない遠い世界だったのに。
いきなりトスカはないだろう、とツァイは思う。この南の海岸近くに点在する集落の人々にとってみると、トスカは身近にある一番大きな町なのだ。
「大変なこと……て?」
おそるおそるたずねる。もう自分の想像の範疇ではない。とっくに超えている。
「市場の複数の場所で火の手が上がり、町全体に広がったと聞いています」
「は……?」
なんだそれは?
ツァイはぽかんとした。いや、もう何度目かわからないけれど。
でも、だっておかしいだろう?
変だ、奇妙だ、とツァイにだってわかる。なのになんで、師匠はこんな、いつも通りの余裕ぶった顔をしているのだろう。
「そうですか?」
そのことをたずねると、ヴァートは意外そうな顔をした。
「落ち込んでいるピークが過ぎただけですよ。それに僕は……なんだか一番運が良かったようなので、ちゃんと考えて見届けないといけないな、と思っているだけです」
この国の命運を、とはヴァートは口にはしなかったけれど、つまりそういうことなのだろうな、と感じてしまった。
運が良かった。師匠はそう言った。もしかしたら彼は王都にいて巻き込まれたかもしれないのだ。トスカにも立ち寄っていた。
でも、師匠はここにいる。
「君の見ている星、というのは、どんなことがわかるんですか」
海風を受ける風車の下で、師匠がたずねてきた。
「え……えっと」
見えることが自然のツァイにとって、それを見えない人に説明するのは難しい。
「君は確か……ここへ来てすぐに言いましたよね、危ないって。この国は平和なんじゃないのか、て。あのときはまだなにも起こってなかった。そしてあの夜まで君はそんなことを言わなかった。それは、つまり?」
ヴァートが小首をかしげてたずねてくるが、そんなことツァイにわかるはずがない。
「つまり、っていわれても」
「でも君は、凶星が見えるといって僕を待ち構えていましたよね、道端で」
なんだか棘のある言い方で、師匠はむかしを掘り返す。いや、むかしと言ってもほんの数日前のことだ。まだ月も変わっていない。
「えっと……」
ヴァートがじっとツァイを見つめてくる。説明しろってことだよなあ、と思う。
師匠は確かに頭のいい人だけど、自分は風車技師なので星のことはさっぱりだと言っていたけれど、でも確実に……自分より頭がいい。
うん、そうか、とツァイは頷いた。だから、説明するのか。
「星は、星だ。夜空に見えるたくさんの星と同じ。アンデルシアは金の星、サグーンは青の星」
手探りのように話し始めると、ヴァートは静かに頷いた。
「はい」
「ウィンダリアの星は、白い星」
「白……ですか」
ぴんとこなかったのか師匠はまたたきした。この人、まつ毛長い。
「農作の星も白いよ」
「そうなんですか? じゃあ森の国という意味なんでしょうか?」
「さあね。僕はそうなんだって知っていることはあるけれど、詳しい人に習ったわけじゃないから意味まではわからないな」
「ああ、そうでした。どうぞ続けてください」
師匠が促す。それから、なにを話せばいいんだろう。
「それで……その白いはずのウィンダリアの星が……もともとオレンジっぽかったんだけど、それがちょっと前から濃くなってきて」
「濃く、というのは?」
「あ、つまり、白がオレンジに変わってきて」
「ちょっと前とはいつ頃ですか。思い出せる限り正確に教えてください」
ツァイの大まかな説明に、ヴァートが指摘する。
いや、まるで手を差し伸べるような感じで。
「えーと。えっと」
思い出せ、とツァイは自分の頭に命令した。
生まれ故郷の村で、しんどいわりに収穫の少ない畑仕事を手伝って、とはいえツァイの手伝いは役に立たないとか言われて、口では怒っていたけれど、そんなの自分だって本当はわかっていたから、畑の手伝いはだんだん減って、星を見るばっかりで。
でも芽月になって、星を見ているときの風が心地よくなって、畑に入れる肥料を運ぶのを手伝ってと言われて……あのとき。
「芽月だ。芽月の初めの頃。畑に肥料を追加するとき!」
思い出して大きな声を出すと、師匠がへえ、と感心した。
「君でもちゃんと畑仕事の手伝いをしたんですね」
「そんなこと……!」
師匠が感心した点に一瞬腹が立ったものの、あまり手伝っていなかったのも事実で、ツァイは急いで話をそらした。
「いやだから。芽月の初めだ。その頃に白い星がオレンジになっていって、この国は大丈夫なのかって……まあ、思ったんだ」
今思えばずいぶんと思いあがった発言だが、そのときは本当にそう思ったのだ。
ほんの二カ月もたっていないのに、自分はずいぶんと変わったものだ。
そしてそのかわった原因たる人にちらりと目をやると……師匠は指をあごに当て、考え事の顔をしていた。
「師匠?」
「ウィンダリアの星が白からオレンジに変わった。それから? 僕に会ってその頃は?」
「え……と、師匠と会うまでは毎晩見てたけど、ずっとオレンジだった。でも、その、師匠と馬車で移動しているときは……」
「あまり見てませんでしたね。星を見る、というのが僕らと同じ夜空を見上げるという行為だとすると」
「う……そうなんだ」
おやおや、と、師匠はわざとらしく呆れた表情をしてみせた。
「そして、ここに着いて、風車に登って。あのとき君は顔色を変えましたね。今度は何が見えたんです?」
聞かれて、ぎくりとした。思わず、風車を見上げた。
「星が……」
久しぶりに空を見上げて、見慣れた配置を目で追って……その色に、ぎょっとした。
「色が、かわっていたんだ」
「それは?」
「ウィンダリアの星が、赤くなっていたんだ」
短い期間でそんなふうに変化するなんて知らなかった。
ツァイには自らの少ない経験しか知識がないので、それがよくあることなのか、異常なことなのかがわからなかった。
「赤……というのは、なにか意味があるのですか」
ツァイの様子がただならぬと感じ取った師匠は、それでも目をそらさずたずねた。
だから、ツァイは答えなければ。
「赤い星は……星の終わり。燃え尽きて終わる星の色」
口にして、ぞっとした。
あまりにもいまのこの国のようではないか。
師匠は口をつぐんで、だからしばらく静かだった。
潮の香りと海からの風、風車が動く音しかしない。
あたりはいつの間にか夕暮れていて、空は薄青から紺色へ塗り替わっていた。
師匠はじっと黙りこんでいた。
ツァイの話からこの人はどんなことにたどり着くのだろう。
長いのか短いのかわからない時間が過ぎ、ふいに、師匠が顔を上げ、そしてまっすぐに見た。
ツァイではない、なにかを。
……そして。
「話は全部聞かれましたか。僕より貴女のほうが詳しいと思うので、ぜひともご意見をいただきたいのですが、黒の姫」
ヴァートは、風車の向こう側に向かって、声をかけた。