四章 終焉の鐘の音
ツァイが階段の上に立つと、下方から師匠がすごい速さで駆け上がってくるのが目に入った。
「師匠!」
「邪魔です、どいてください」
「え、ちょっと、師匠!」
ツァイを突き飛ばして、ヴァートは駆け上がっていく。
あの小さい体にはときどきものすごいエネルギーが詰まっているんだよなあ、と思う。
呼び止めようとしても無理そうなので、大声で呼びかける。
「僕はどうするのがいい?」
すると踊り場で身をひるがえした師匠が、やっとちらりとこちらを見た。
「君は体力に自信はありますか?」
返ってきたのは別の質問だった。しかもどうつながるのかさっぱりわからない。
う、えっと、と口ごもっていると、師匠は鋭い目で短く言った。
「はいかいいえで答えなさい」
「はい! ……あ、いいえ!」
「意味がわかりません」
「あ……え、だから、体力に自信はないって!」
大声で答えるには恥ずかしいのだが、師匠のあの目の前では見栄なんてあったものではない。
「では君は技師の皆さんを手伝って避難しなさい」
短く命令すると師匠は再び走り始めた。
それを見送って振り返ると……さっきまで黒姫の話を聞かせてくれていた長老はじめ老技師たちが、皆いつのまにか両手に荷物を抱えてやってきていた。
驚いたのは……彼らが手にしているのはどれも、風車の資料と思われるものばかりだということだ。
「は? あの、じーさん?」
「エメルダ殿はなんと?」
ツァイとヴァートの会話は聞こえていなかったらしく、長老がたずねてくる。
「え……と、皆さんと避難するように、て」
手伝えと言われたが、なにをすればよいのだろう。
風車にかかわる人は皆とても体力があって、ツァイは驚かされたものだ。自分なんかに、なにか手伝えるのだろうか。
「わしらは大丈夫じゃ。いざというときには、こうして逃げられるように準備してある」
抱えているのはどう見ても紙の束だが、まさかあれだけで逃げるわけにはいかないだろう。
なにか手伝えることは、と、老人が諦めても自分なら運べるものがあるかもしれないと足を踏み出す。
「坊主」
けれど、長老がそれをとめた。
「おまえにはまだその手に抱えている財産がないというのなら」
無言で、老技師たちが同調する。
ツァイはその迫力に圧された。
「エメルダ殿を手伝うのじゃ」
「え? でも師匠は……」
「あの方は、あの細腕だけでは抱えきれぬ財をお持ちじゃ」
ツァイは困惑した。
あの師匠は、まあ確かに役人というより貴族っぽい雰囲気ではあるけれど、お金持ちという感じではないし、持ち物も多くはなかったはずだ。一緒に乗ってきた馬車の中は、風車のための資料ばかり……。
「……!」
ツァイは目を見開いた。
老技師たちが抱えているのは、風車の資料。
これは……彼らの財産なのだ。そしてこの町の、誇りなのだ、と。
今更気付いた。
本当に今更だ。自分はつくづく馬鹿だ。
ヴァートが馬車いっぱいに積んできた資料は、いまこの建物の最上階に運び込まれている。
そこが風車再建計画の本拠地だからだ。
さっき師匠が走って行った、行く先だ。
あの師匠が王都から意味のないものを持ってくるはずがない。そして師匠が、それらをあっさり手放すなんて、あるだろうか?
天使みたいな笑顔で、でもあの翡翠の瞳はいつだって人の痛いところを、鋭く突いてくる。
優しい微笑みで、風車が素晴らしいものだと胸を張る、あの人が。
「皆さんは、安全なところへ……」
「大丈夫じゃ、坊主。わしらはそんなに落ちぶれてはおらんよ」
にやりと笑うと、ごつい手でツァイの頭を撫で、老技師は階段を下りていく。
何人にもそうして撫でられ肩をたたかれ、まるで子ども扱いされて……ツァイは落ち込んだ。
子ども扱いが嫌だったのではない。
自分がまだまだ物のわかっていない子どもだという現実を、目の当たりにして落ち込んだのだ。
階段から見えなくなった老技師たちを、いつまでも見送って……ツァイはようやく上を向いた。
師匠は上がって行ったきり降りて来ない。
あの大量の資料をひとりふたりで運び出すのは不可能だ。
でもヴァートひとりより、自分とふたりのほうが、ひとつでも、紙の一枚でも多く運び出せるはずだ。
きっと師匠なら、諦めるより嘆くより、もっと前向きで現実的なことを考えているだろう。
自分には、守るべきものがない。
ツァイには、まだ大切なものが……なかった。
もしここが故郷の村だったとしても、抱えて守るものはなかっただろう。
他人が手を貸してまで守るべきは、あの方の財じゃよ、と。
自分の守るべきものは、自らの手で守ると、あの老技師たちは言ったのだ。
そういうことだ。
「……ちくしょー」
ツァイは呟いた。
鐘が、打ち鳴らされている。
「師匠もさ」
ツァイはぎゅっと拳を握ったが、それは無意識だった。
年も背丈も、ほんの少ししか負けてないのに。
「手伝えって、言ってくれたらよかったのに」
でも、あの人は、そんなことは言わなかった。
ヴァート・エメルダもまた、自分の守るべきものは、自らの手で守ると、そう態度で示したのだ。
「逃げろって言いながら、反対方向に走って行くなよ」
鐘が、打ち鳴らされている。
周囲に人の気配はないが、外からは人々のざわめきがわずかに届く。
師匠はまだ、降りて来ない。
降りてくる前に、自分は行かなければ。
「僕は……」
ツァイは踏み出した。
「僕はあなたの、弟子なんだからな!」
ツァイは風車技師ではない。
役に立たない田舎者かもしれない。
でも、師匠は師匠だ。
自分を拾ったからには、覚悟してもらうんだ。
ツァイはどこまでもついて行ってやる、と思った。
階段を駆け上がる。
風車のことも、国のこともよくわからないけれど。
炎が迫ってくる、ということがどういうことなのか。
考えるのは後にしよう。
ただ、師匠のところへ行かなければ。
終焉の鐘が鳴り響く、小さな岬の町フィンダイで、無力な少年はやっと行き先を見つけて、走り出した。