五章 興国の階

 鐘が、打ち鳴らされている。

 王都に起こった火災の様子を伝え聞くにつれ、ヴァート・エメルダはおかしいな、と思った。
 北の国境の騒動は、サグーンが便乗したものだろうか、と考えた。けれど、それも不自然か。
 南の港町トスカと首都ウィンディスをつなぐ街道のあちこちで複数の火事が発生した。森の王国に火は天敵だ。それに便乗するのは考えとしてはありうるが、なにぶん情報が早すぎる。便乗ではなく、計画的だ。
 想像ではなく確信だった。
 けれどわかったからといって、自分に出来ることはなにもない。
 ちょっと国で一番の風車技師、というだけの自分では。
 炎がついに迫ってきたと知らされたときも、そんなには驚かなかった。
 ああ、きてしまったか、と思った。もう逃げるところもないのだろうな、と思う。
 王都の、研究所の仲間たちは無事だろうか。研究所の資料は……。
「ふう」
 考えると、溜め息がでた、
 無理だろう。
 運び出すなんて到底無理な話だ。望みがあるとするならば、人々の頭の中に残っている知識。でも。
 鐘が、打ち鳴らされている。
 国土のほとんどを森林が占める、森の王国ウィンダリア。
 言うまでもなく、この国の最大の弱点はこの森だ。
 ヴァートが、人々が、いつも心のどこかで恐れていたことが、とうとう現実になってしまった。
 ……残念ながら、それだけだ。
 森が燃え尽きてしまったら、この国にはなにが残るのだろう。
 なにか、残るのだろうか。
 風車は?
 鐘が、打ち鳴らされている。
 この町にも、火の手が迫ってくる。
「……ヴァートさま」
 まったく気配もなかったのに、彼女は唐突に現れた。
 ヴァートは意外にもあまり、驚かなかった。
「おや、いたのですね」
「もうすぐ火がまわります」
「ええ……そのようですね。町の人々はちゃんと逃げられそうですか」
 ゆるりとたずねると彼女は答えなかった。
 かわりにじり、と自分に近づいてくる足音を感じる。
「ヴァートさま」
 さっきより少し強い口調で呼ばれ、ヴァートはやっと振り向いた。
「……どうしましたか」
「お逃げになりませんか?」
「もちろん、逃げますよ。貴女もご一緒しますか、それとも余計な申し出でしょうかね」
「ヴァートさま」
 違う、と。
 彼女がなにかを訴えている。
 黒姫。
 ウィンダリアでは情報機関として存在が公認されているけれど、国によっては不吉だといわれ、鴉の娘と呼ばれることもある少女たち。
 その呼称は、黒い制服と黒髪の外見に由来する。黒い髪、というのは自然に生まれなくもないがあまり多くはないと思う。彼女たちはやはり、染めている……のだろうか。
「なんでしょう。貴女は……貴女がたは、僕になにを期待しているのです?」
 ヴァートがたずねると、彼女はじっとヴァートを見つめ返してから、首を振った。
「ヴァートさま、あの馬車に乗せてきたたくさんの資料を持っていかなくていいのですか」
「おや、貴女は、風車の技術のことを心配しているのですか」
「この町の技師は皆、資料を運び出していました。王都でも、研究所の人々はたくさん運び出していたと聞いています」
「そうですか。研究所の皆さんの執念に期待しましょう。僕がいずれ合流出来ればいいのですが」
「ヴァートさま」
 彼女が、何度か目に強く名を呼んだ。
 彼女を見れば、目が合う。
 ヴァートは、苦笑した。
「僕は……諦めているわけではないのですよ」
 そう、彼女は黒姫だ。黒姫と言うのは、なんでも知っているのだ。
 王都の研究所の面子が、風車に並々ならぬ情熱を傾けていること、ゆえんに王宮の人々とよくぶつかること、彼女はもちろん知っているだろう。
 そしてヴァートはその筆頭であることも。
「大丈夫です、そんなに心配しないでください。ここへ持ってきた資料は、ここの風車の改修用に作成したものなので、重要ではありますが、ここを離れたらあまり意味がないんです」
 ヴァートの言葉に納得したのか、彼女は少し表情を緩めた。
「大切なものは、すべて王都です。ここに来る前に同僚に託してきました。だから言ったんですよ、彼らの執念に期待、て」
 やわらかく微笑んで言った。
 鐘が、打ち鳴らされている。
 ふたりの周囲に人はいない。町のほうは騒がしいから、人々は避難しているのだろう。どんなに風車を守っても人がいなければ意味がない。
「……でも」
 ヴァートは顔を上げた。
 見上げるのは、岬の風車。
 長年ここで役割を果たしてきたこの風車の、労をねぎらってやろうと思ったのに。
 その仕事をせずにここを去らねばならないのかと思うと、この風車に申し訳ない気がした。
「でも」
 それでも。
 やはり自分は、風車技師だ。
 そうだ、森の王国始まって以来の、天才児だ。
 きっとそうだ、だから自分はいま、ここにいるのだ。
 そのために。
「そうですね」
 ならば、自分には守るものがある。
 この愛すべき風車は、たとえ森が失われ、国が姿を変えようとも、自分が守らなければならないものだ。
「行きましょうか」
 ヴァートは歩き出した。
 それは人々が避難しているざわめきのほうへではない。
「仲間と合流した時に、僕だけ手ぶらでは格好悪いですかね。まあ、頭の中の蓄積が絶対的に違いますが」
 ヴァートがわざとらしく、でも彼らしく強気の発言をすると、彼女はうっすらと笑った。
 そして……姿を消した。
 でもヴァートはそれを見ていたわけではない。
 すでに彼女に背を向け、歩き出していたから。
 見なくても、彼女が追いかけて来ないことくらいわかっていた。
 彼女がなにをしに来たのか、本当はわかっていた。
「まったく、僕としたことが」
 だから、ヴァートは呟いた。
 思わず口を突いて出た。
「彼女に心配させるなんて、まだまだですね」
 ためいきをひとつ。
 でも、そうと決まればヴァートの行動は早かった。
 誰より優秀で、誰よりも風車を愛している。その自覚がある少年は、迷いなく走り出した。自分に、追いつける人がいるはずはない。
 ヴァートの行き先は明確だ。たとえ終着点は見なくても、道だけはまっすぐのびていて、きっとヴァートはいつだって間違えることなくまっすぐ進んでいけるのだ。
 まっすぐ。
 まっすぐに。