五章 興国の階

 人々は、森から離れた海にほど近いところに避難していた。
 町の男が交代で少し森のほうを視察しに行く。安全と思われる海辺から街道への道は、元気な少年たちに様子を見に行かせる。
 それでも得られる情報は限られていた。
 町の人が気を利かせて空けてくれた荷馬車の隙間に、資料はだいたい載せられたので、ヴァートたちはとりあえず、手に持たずにいられた。
 ……ヴァートは、人の集まっている避難所の近くに彼女がやってきたのをみつけて近寄った。
 近く、といってもそんなにすぐそばまでは彼女は寄ってこない。
 かけ足になるヴァートのまとった緑色のマントが後ろへとなびく。
「どうなんでしょう、現状は」
 寄っていって声をかけると、あまり変化なく見える彼女だが、ヴァートの言葉にちらりと上目遣い気味にこちらを見上げふっと息を吐いた。
「ヴァートさまは、この森が好きですか」
 小さな声で、喋った。
 彼女が話すことに慣れたとは言い難く、ヴァートは少しばかり驚いてから、微笑んだ。
「もちろん好きです。けれど風車の比ではないですよ」
 わざと軽口で返すと、彼女がほんの少し微笑んだ。
「この国の森はもう終わりだと思います」
 彼女は、ウィンダリアのひとならば少なからず衝撃を受けるだろうことを、さらりと告げた。
 もちろんヴァートもショックだったけれど、心のどこかではやっぱり、と思っている自分がいた。
「そうだすか」
「残っているのは北のほうだけです。王都より南は壊滅と言っていいでしょう」
 彼女の、彼女たちの情報に、間違いはないだろう。ヴァートは確かに森と調和したこの国が好きだったが、すでに失われたものに対して、自分は無力だと思う。
「王都の人々は……王宮は無事なんですか」
 ヴァートがたずねると、彼女は一瞬視線を落とした。
「え?」
 その動作に、今まで感じなかった不安を感じる。
 森は、仕方ない。火に弱いことは十分承知で恐れていたし、そして一度火に飲まれたら消すことなど人の手では無理だとわかっていたから。だから人々は逃げる、という手段を常に考えていたのだ。
「ヴァートさまは、この国が……好きでしたか」
 小さな声で、喋った。
 彼女が、過去形で言った。この国は……過去形なのか。さすがのヴァートも絶句して彼女を見下ろす。
「火を」
 ヴァートの答えを待たずに彼女は口を開いた。
「王都に火を放ったのは、サグーンです」
「……え?」
「サグーン人が入り込んで火を放ったのです。次の北の国境に騒動が起こったのは、あれは陽動だと思われます。サグーンの目的は王都のあとはトスカでした。ウィンダリアはサグーンの思惑通りに振り回され、森が手遅れと気付いた頃、悠々と踏み込んできたサグーン本隊を追い返す力はすでにありませんでした」
「サグーンの本隊……?」
 ヴァートは呆然と呟いた。
 北の軍事大国サグーンとウィンダリアとは国境を接しているおかげで長いこと睨みあっているが、実際彼らと戦争をして勝てるとは思っていなかった。けれど彼らは、その強い軍事力で攻め入ってきたわけではなかったということか。
「それで?」
 先を促すヴァートの表情とは反対に、彼女はいつもと変わらなかった。
「王国とは、王家が断絶すると王朝が途絶えるものです」
「それは……」
 それは、事実だ。知識としては皆わかっている。でもそれが、現実になるとはだれにも想像がつかない。
「王……陛下は?」
 この国のことは好きだった。森の王国。王宮の人たちとは仲が良いとは言い難いけれど、べつに嫌っているわけではない。あの空間は、居心地が良かったのだ。
 でも。
 王国が、王国でなくなる、ということが、あるのか……?
 この森が燃えてなくなったように?
「ヴァートさま」
 彼女の声にはっとする。
「え、ああ、はい」
 自分らしくない返事が口をついて出る。これではまるでツァイではないか。ひとつ年下の弟子を思い浮かべて苦笑する。
 ……そうだ。
「星が、燃え尽きる、というのはこういうことなんでしょうか」
 ふとツァイから聞いた話を思い出した。
「え?」
 それに珍しく彼女が驚いた顔をした。
「ああ、すいません。最近僕と一緒にいるツァイという子がいるでしょう? あの子は星が詠めるらしいのですが、貴女はそういうのに詳しいですか? 王都に連れて帰ったら役に立つかなと思ったのですけど……手遅れ、だったようですね」
 ふう、と息を吐いたら、なんだか緊張していた肩が少し軽くなった。
 だからじっと見上げてくる彼女を、少し腰をかがめて覗き返す余裕が出来た。
「星が、視えるのですか」
「だ、そうですよ。僕には残念ながらまったくわかりませんが。彼を修行に出すならどこがいいですかね。僕の名前なら後ろ盾に使えるかと思ったのですが……」
 ヴァートは、目を細めた。
 誤魔化そうとしても、目をそらそうとしても駄目だった。
 たった一つの答えに辿り着いてしまう。
「ウィンダリアの、首席研究員、という肩書はもう使えないのでしょうかね」
 いつもと同じ調子で、軽口のように言ってみるが、こればかりは心を軽くしてはくれなかった。
「……ヴァートさまがお望みなら、わたくしたちで良いように手配いたします」
 彼女は相変わらず、表情を変えずに請け負った。そうなのか、とヴァートは妙に安堵した。
 それからにこり、と微笑んで、そして彼女を改めて見つめた。人が天使のようだとときに表現するその笑顔で。
「それで、貴女は僕に何を言おうとしているのですか」
 笑顔の奥に、ウィンダリア随一の知性が冷静にきらめいた。ヴァートに言葉の封印を解いている黒姫は、驚きはしなかったが、無反応をつき通すことも出来ずやや瞳を揺らした。
「ヴァートさま……」
 名を呼ぶ声。彼女の声は消えてしまいそうに儚くて、飛んでいきそうな小鳥のようで、ヴァートはいつも少しの不安を感じるのだ。
 でも、なのに、手を伸ばして掴んだら、もうさえずってもくれないのではないかと、ヴァートはいつも少しの不安を感じるのだ。
 だから見守り、見送るだけなのだ。
 その声を。彼女を。……どうして。
「ヴァートさま。……もし」
 彼女が紡ぐ言葉には意味がある。
 きっと、大きな、深い、ヴァートの知らない世界の奔流が。
「貴方に、新しい世界の王になってほしいと申し上げたら、ヴァートさまはなんとお答えくださるでしょうか」
 それが清流となるか濁流となるかは、誰が決めるのだろう。
 ヴァートが? 彼女が?
 それとも、世界が、だろうか。