六章 門をひらく者

 焼け野原となったかつての森の間を縫う街道を、一台の馬車が駆け抜けている。
 周囲になにもないのでそうと気付きにくいが、一頭立ての馬車にしては、ものすごいスピードだ。
 そして異様なのはその速さだけではない。
 人が乗るはずの後部座席には、人は乗っていなかった。なのに御者台には……三人が並んで座っている。
 真ん中に座っているのは、一目で身分ある者とわかる格好をしていた。王国の国旗に準じる濃い緑色のマントは王家や貴族以下、王都で重要な地位についている者にのみ許されるものだ。少しばかり年若い外見だが、柔らかそうな金髪と翡翠色の瞳は遠目にも上品そうで、あるいは貴族の御曹司かもしれない。
 にしては馬の手綱を持っている。彼が貴族なら、下僕のするべき仕事だ。
 そんな仕事はその隣にいる少年にこそふさわしいはずだ。
 あるいは主人に仕事を取られたのかもしれない召使らしい少年が、貴族っぽい少年の隣に座っていた。服装も雰囲気も明らかに庶民だ。手綱を持っている少年と、時折言葉を交わしている。
 そして、もうひとり。
 会話にも参加せず、まるで影のように座っている少女がひとり。
 あまり長くはない黒髪に黒い制服を着ている。知らなければどこかの国の軍人に見えるかもしれない。あるいはどこかの国の騎士に。あるいは、魔法使いに。
 しかしいづれのようにも見えて、けれどどれとも異なる。
 幼そうに見える外見とはうらはらに、決して庶民には見えない独特の……いやはっきり示そう、不気味な雰囲気である、と。
 御者台もそこだけ闇が落ちたかのようだ。けれどそこに座る彼らには違和感などないのか、馬車はガラガラと走っていく。
 人も森も町もなくなった荒野を、彼らは道なき道を辿って行く。


「王都って、こんなに、遠いのか」
 御者台の隅で揺られながら、ツァイがぼやいた。
 いや、あまりにも揺られているので、途切れがちな言葉に乗せられた感情までは周囲にうまく伝わらなかったのだけれど。
「ずいぶんと飛ばしてますから、早く着くと思いますよ。以前のままの道を行くよりはね」
 ヴァートがちょっと大きい声で答えた。そして馬に鞭を入れる。会話は途切れた。話しているより進みたいのだ。……前へ。
 しばらくして、ふとヴァートの腕に少女が触れた。気付いてヴァートが馬の足を緩める。そして彼女がそっと示すほうへと進んでいく。やがて行く手に小さな川が現れた。
「良かったですね、ツァイ、お待ちかねの休憩ですよ」
「いやぼくはべつに……」
 ぶつぶつ言いながらツァイは小さな流れに身を乗り出し、えい、と御者台から飛び降りた。
 先に降りて足場を確かめ、小枝や小石を避け始めたツァイに、ヴァートは成長したなあなんて思いながら手綱を操った。
 出会ったころはなにも出来ない子だったけれど、教えた分だけ知識を吸収するし、不本意かもしれないが彼はだいぶ旅慣れてきている。
 ……と保護者のように思っているヴァートとは、年齢はひとつしかかわらないのだけれど。
「師匠ー!」
 馬を止めて黒姫に手を貸し彼女を下ろしたところへ、ツァイが顔を出した。
「なんですか? ごはんなさっき食べましたよね」
「ちがう! 馬、洗ってやるのか? 昨日もこのくらいの時間に洗ってやっただろう?」
「おや、よく覚えていましたね」
「やればいいのか?」
「ではお願いしましょう」
 馬は適度に休めて水を飲ませ、身体を洗って体温を下げてやらなければならない。ヴァートが馬を洗ってやるのを見て、ツァイはその作業を覚えたらしい。小石を拾うのも同じだ。水汲みに何往復もする場合、たかが石と思っていたものが、ずいぶんと邪魔になることがある。
 馬の世話をツァイに任せて、ヴァートは黒の娘を振り返った。
「大丈夫ですか、お疲れでしょう。水場に行きますか?」
 顔を覗きこんでたずねると、彼女はわずかに頷いた。ヴァートが手を差し出すと、それをしばし見つめてから、そっと手を乗せる。
 その小さな手を握って、ふたりで小川のふちまで降りて行った。
 ズボンの裾をまくりあげて水を運んでいるツァイを眺めながら、ヴァートは黒の彼女にたずねた。
「だいぶ来ましたよね?」
「……はい。問題なければ明日には着くと思います」
 わずかな川のせせらぎに溶けてしまいそうな声で彼女が言った。
「よかった。早く来れたとは思いますが、さすがにこの強行軍は少しきついです」
 言葉の内容に反して、にこり、とヴァートが微笑むと、彼女はうつむいた。
「謝らないでくださいよ」
 そして彼女がなにか言う前に、ヴァートは釘を刺した。少し驚いた顔で彼女が振り向く。
「貴女が言ったから王都に向かっているわけではありません。どうしたって僕はあの町に戻らなければならなかったんです。貴女がいてくれて助かっているのですから、謝らないでください」
 先に全部言う。彼女には、言わせない。
「師匠ー、終わったぞー」
 川の向こうでツァイが手を振って声をかけてきた。ヴァートは見えるように微笑んで頷く。
「ごくろうさま。この旅も明日には終わりそうですが、もう少しは無理にも進まないといけません。君も休んでおいてください」
「あ、はい……」
 師匠の言葉に年の変わらない弟子は、少し表情を動かした。
 明日かあ、と呟いたのがわずかに風に乗って届く。
「ええ、明日」
 誰にともなくヴァートも呟いた。
 明日。
 ヴァートは王都へ帰還するのだ。
 そこに何が待っているのか、知って嬉しいことなんて何もないかもしれないけれど、知らずにはいられない。
 自分がいなかった王都。自分がいるはずだった王都。いまは……失われた、王都。
 それでも、実際目にするまではとても実感がわかない。
 この、荒れ野になった森を目の当たりにしてもなお。
「それでは出発しますか」
 王都に向けて、ヴァートは進むしかない。
 行き先は見えているようで、いつも見えない行き先を、手繰りながら。