六章 門をひらく者

 その廃墟の中にあっても、大風車台は美しかった。
 ヴァートはその光景を目にして、驚くとか悲しむとか、あるいは怒りを覚えるとか、そういった感情を抱く前に、見惚れてしまった。
 元の姿を想像できない焼け野原が、かつてこの国で最も人口を抱えていた町の残骸だと確信できるのは、かつてこの国で最も美しい国の象徴であった大風車が、今も変わらずあの高台からこちらを見下ろしているからだ。
 この廃墟の中にあっても、やはり大風車台は美しかった。
 ヴァートはその姿を茫洋と見上げた。
「……し、師匠、なあ」
 時が止まったかのような沈黙は、けれど当然ヴァートの主観でしかなく、ツァイの遠慮がちな、でも切羽詰まったような声にヴァートは我に返った。
 見ればツァイは……いや、ツァイと黒姫は大風車台ではないなにかに気を取られている。
 ツァイはどこかおびえたように、彼女は……冷たく睨みつけるように。
 その雰囲気にはっとして、ヴァートは振り向いた。頭がなにかを計算して、危険という解を導き出す。
 果たしてそこに、背の高い男が立っていた。
「ふーん? 緑のマントねえ?」
 男が一歩踏み出すと、背中になびかせた薄い色の金髪がふわりと揺れた。遠目にもわかる鮮やかだが深い紫色の瞳が、自分を眺めまわしている。ぞっとしたのは、きっとその視線が獲物を狙う狩人の瞳を思わせたからだ。
 すっと、黒姫が前に出た。
 なにをする気なのかと動きを目で追って……思わず目を瞠った。彼女はヴァートをかばうように立ち塞がったのだ。
「な……」
 手を伸ばしその肩に触れたが、彼女は動じなかった。
「なんだ、おまえ。そいつを守っているつもりなのか?」
 数歩こちらに歩み寄ってきた男が、彼女に向かって吐き捨てるように言った。彼女は答えない。
「そいつは……貴族か?」
 男がヴァートを品定めするように見た。それで……再び頭が知りたくもない解をはじき出してしまった。
 貴族か、と問うのはすなわち、王家に連なるものか、ときいているのだ。
 そうであれば殺す、と。
 つまり。
「この人は、王族でも貴族でもない。ウィンダリアの王にはならない」
 彼女が、口を開いた。
 自分以外の誰かに向かって話すのを、ヴァートは初めて耳にした。
「ふーん、ちがうのか」
 男……おそらく、いや間違いなくサグーンの男は、あっさりと彼女の言葉を信用した。おや、と思う。恐怖が一瞬遠のく。
「……お知り合い、ですか」
 知り合いというのもおかしいが、ほかに適当な言葉が見つからず、ヴァートは彼女の耳元に問いかけた。
 ちらりと視線がこちらに向き、それから彼女は再び男を睨みつけた。
「ウィンディスとトスカに火を放った張本人です、あの男は」
「え……?」
 決して友好的ではなかった。
 敵だと思った。
 あるいは殺されるかも、と、確かに思った。
 一目見た瞬間に危険を感じ、自分一人では彼女とツァイを守れないと、頭は咄嗟に計算していた。
 けれど。
「火を放った、張本人……?」
 怒るより、呆然とした。
 森と調和したヴァートが好きだった王都の街並みが脳裏をかすめる。けれどいま、目の前に広がるのは焼き払われた残骸の町……。
「はっ!」
 男が息を吐いた。いや、笑ったのか?
「おまえが連れてくるからどんな男かと思ったら、とんだ腑抜けのお子さまじゃねえか」
 男が、また、吐き捨てた。
 ヴァートは……少し遅れてむっとした。あるいはこの瞬間にやっと現実に戻ってきたのかもしれない。
 こいつは、自分を馬鹿にした。
 腑抜けだって? お子さまだって?
 ああ、そうかもしれない。この王都を、みすみす敵の手に落としてしまった愚か者かもしれない。
 気付いたらヴァートは一歩踏み出していた。どんな顔を、していたのだろう。男が面白そうに嗤った。
 ヴァートは、自分の感情の名前を知らなかった。たぶんこれまでのあまり長くない人生の中で、こんなふうに本気で思ったことがなかったのだ。
 こんなふうに、体の芯から怒りを覚えるなんてことは、経験がなかったのだ。
「ヴァートさま……!」
 耳に届くかどうかという小さな声で名を呼ばれ、袖をひっぱられて、それでヴァートの足は止まったけれど、視線は外せなかった。
 いまは明らかに言える。
 ヴァートは目の前の男に対して、腹を立てていた。
 くい、と袖が引かれる。振り返らずとも意識を彼女に向けると、それにちゃんと気付いたらしく彼女はこそりとささやいてきた。
「ヴァートさま、どうぞお捨て置きください。あやつを相手にしてはいけません」
「でも、ナツ……!」
 思わず彼女の名を口にしかけて、唇をかみしめる。
「申し訳ありません、ヴァートさま。確認せずに来てしまって」
 彼女の言葉にヴァートは一瞬息を止め、そして吐き出した。息と一緒に肩の力も抜けていく。
「……いつも言っていますが、貴女は僕に謝りすぎです」
 ようやく普段の調子を取り戻したヴァートに、どうやら息をつめていたらしいツァイが背後で大きく息を吐いた。
 ちらりと目をやると星詠みの弟子は誤魔化すように、背筋を伸ばした。
「おい、カラス」
 けれど三人のいつもの雰囲気を取り戻したのもつかの間、決して友好的とは言えない高飛車の声が、空気を裂く。
 カラスとは彼女のことか。黒姫のことをあまりよく思っていない地域では、彼女たちは鴉の娘と呼ばれているらしい。
 呼びかけに応えるように彼女がゆるりと振り向いた。
「そいつが次の王ではないというのなら、おまえらはここへなにをしに来たんだ」
 それでは、まるで。
 ヴァートは頭に浮かんだことに自ら眉宇をひそめた。
 いや、まさか。この男は、だから待っていたのか?
「わたしたちは」
 男の問いかけに彼女が口を開いた。
 彼女が自分以外の男と、自分を通り越して会話している現状になんだかもやもやするものを感じる。
「風車を見に来たんだ」
 彼女は言って、大風車台を見上げた。
 つられてヴァートも見上げた。
 廃墟を見下ろす大風車は、それでも、やはり美しい。
 後ろでツァイも同じように見上げていることに、ヴァートは気付かなかったが、男はそんな三人を見て、はっ、とまた息を吐いた。
「まったく。ウィンダリア人ってのは、本当に風車が好きだな! こんなデカいもんがこんなにあちこちに建っているとは知らなかったぜ」
 呆れたように呟く台詞に、ヴァートは少し首をかしげる。
 この男はほかの風車も見たのか? つまりずっとここにいたわけではないのか。ではほかにどこの風車を見たというのだ?
 なぜか気になって男に視線をやると、彼は……背を向けていた。それは当然かもしれないが、男は挨拶もなく立ち去った。ヴァートと並んで黒姫も、ただ黙ってその背中を見送っていた。
 見逃されたのか。……なぜ。
 ヴァートはもういちど大風車を見上げた。
 美しい大風車。もちろんこの国の風車はどれも美しい。
 馬鹿にされて少し怒ったときには、あの男も興味を向けてきたようだけれど、風車しか目に入っていないとわかってからはヴァートに興味をなくしたようだった。
 もしかして、風車に救われた、のだろうか。
 なんとなくそんなふうに思えて、ただゆっくりゆっくり回っている風車を、ヴァートは飽きもせずじっと見上げていた。