六章 門をひらく者

 どさっという音でヴァートは我に返った。
 驚いて振り返ると、ツァイが地面にへたり込んでいた。
「ツァイ? どうしましたか?」
 たずねると弟子は上目遣いに睨んできた。なんだか涙目のようだ。
「そんな目で見てもなにも出てきませんよ?」
「ばっ……馬鹿師匠っ!」
 ツァイががばっと上半身を伸びあがらせたが……どうやら腰が抜けているようで、それ以上は動かない。いや、動けないのか。
「えっと。すいませんね、ツァイ。怖かったですか」
「あ、あ、当たり前だろう!」
 おや、と思う。もっと強がるかと思ったのに、案外あっさり認めてしまった。
「なんで師匠はそんな平気な顔してんだよ!」
「いえ、平気ではありませんでしたよ」
「本当かよっ? 殺されるかと思ったのに、よくもまあ……!」
 わめいていたツァイの声がしぼんだ。なんというか、力尽きた感じ、だろうか。
「よくもまあ、度胸があるんだな、師匠は」
 そしてぽそりと呟いた。ヴァートは小首を傾げた。
「度胸でしょうかね? 僕は怖いと感じる余裕はありませんでしたね」
「え?」
「それより怒っていたんです。怒りで頭が真っ白になるなんて、はじめて体験しましたよ。ええ、もう二度とごめんですね、たしかに」
 うんうん、としみじみ頷くヴァートに、へたり込んだツァイは……こちらもしみじみ感心した。
「やっぱり師匠ってすごいな……」
「おだててもなにも出ませんよ」
 冗談とも本気ともつかない微笑みで返して、ヴァートは再び大風車台を仰ぎ見た。
「あれは、残ったのですね」
 ようやくその感想を口にする。
「……はい」
 思いがけず黒姫がはっきりと返事をした。
 ツァイがちらちらと彼女を盗み見ているが、まあ、ほうっておこう。ヴァートの弟子は馬鹿でも愚か者でもない。
「風車まで行っても大丈夫ですよね」
「はい」
 会話は一応の確認だけでふたりは荒野を歩きだしていた。あわててツァイが追いかけてくる。サグーンの男がいたくらいだから周囲にほかにも誰か潜んでいるかもしれなかったが、馬車を残していくのもまあいいか、と思った。ツァイをひとり残すのもためらわれるし。彼ひとりのときに襲われでもしたら、そのほうがきっと後悔するだろう。
「……大きいな」
 後ろでツァイがぽつりと呟いた。
「ええ、これはウィンダリアで一番大きな風車なんですよ」
 ヴァートは通いなれた道を進む。
 どうやら炎を免れてはいるが、王宮は人為的に破壊されているようだ。階段を照らしていた篝火の台が倒されて散乱しているのを飛び越え、振り返って黒姫に手を差し伸べる。彼女は黙ったままヴァートの手を取り乗り越えてきた。
「すごい……すごいなあ。あれも師匠がつくったのか?」
「……ツァイ、上ばかり見ていると転びますよ。いいえ、さすがにあれは僕が作ったものではありません。生まれた時にはもうこの場所に建っていたはずですよ」
「あ、そうか」
 年の変わらない弟子は納得して、篝火の台を乗り越える。
 ヴァートはすり抜けようとした黒姫の手を逃さず握りしめ、そのまま歩き出した。彼女もそのまま歩き出す。
 階段を登り切ると屋上に出て、そこでは見上げるような大風車台の全貌が……。
「ツァイ、下がりなさい!」
 ヴァートは叫んだ。
 よくわからないまま、けれど師匠を信頼している弟子は言われた通り階段を二、三段後ずさった。それから崩れかけた壁に頭を引っ込めつつこちらを気にしているツァイを、ヴァートは転がりながら視界の隅に確認する。
 ツァイに警告すると同時にヴァート自身は黒の少女を巻き込んで、瓦礫の散乱する屋上を転がり避けた。
 なにから?
 サグーンのものか、と一瞬考えた。
 けれど思考はその一瞬で中断された。考えている場合ではなかったのだ。
 急いで立ち上がり、同じく……いや自分より先に身体を起こした黒姫を背中にかばう。
 黒姫は……なにも言わなかった。
 ヴァートを止めもしない。
 襲撃者を睨みもしない……先刻のサグーンの男のときのように、相手にはしなかった。
 ヴァートと黒姫がいた場所に、黒い人影がうずくまっていた。見様によっては魔法使いのように見える後ろ姿。けれどあれは、魔法使いではない。
 ばさり、と短めのマントを翻して、その人影は立ち上がり、次の瞬間迷わずヴァートめがけて襲いかかってきた。
「わっ……な、にっ?」
 ヴァートは腕で黒姫を突き飛ばした。それでも襲撃者は一瞬たりとも動じない。腰を落として踏み込んでくる、それは騎士のようにも見える動き。けれどあれは、騎士ではない。
 手にはナイフか何かを握っているらしい。突き出されたそこから咄嗟に逃げる。
 ヴァートは運動神経が劣っているつもりはないが、人より格段に優れているわけではない。ましてや命のやり取りをするような自信はまるでない。
 相手の黒いブーツがまるで軽やかにステップを踏む。けれどそれで次にどんな攻撃が来るかなんて、素人に予測なんてつくはずがない。ひたすらに、逃げるしかない。そうしている間にせめてツァイと彼女が逃げるか隠れるかしてくれたら、その時間を稼ぐくらいしか自分にはふたりを守る力もない。
 いや、そもそも。
 狙いは、なんなのだ。
 狙いは、だれなのだ。
 ぶんっと相手の手がなぎ払われて、ヴァートは慌てて屈みこんでかわした。銀色にきらめいたのは、刃か、それともナイフの柄か。
 マントがひらめき、その胸の小さな円形が目に入る。けれど、それはどこの国紋でもない。ウィンダリアの紋でもなく、サグーンの紋でもなく。どこの国紋でもないけれど、ヴァートはそれを、知っていた。
 ちらりと視線をめぐらせる。
 黒姫は、いつのまにか姿が見えなくなっている。彼女のことだ、心配はないだろう。
 ツァイはさっきまで見えていた頭が見えなくなっているが、大丈夫だろうか。
 ヴァートは息を吸った。
 そして、口を開いた。
「貴女がたは」
 相手の動きが、止まった。
 大きく息を吐き、自分の前方数歩のところに立っている襲撃者に目をやる。
 その視線はただ双方を見つめているだけ。
 暗殺者に対する視線ではない。
 獲物に対する、視線ではない。
「本当に、不器用なんですね」
 ヴァート・エメルダは、微笑んだ。
 目の前の、少女に向かって。
 鴉の娘と呼ばれる少女たちがいる。
 騎士とも魔法使いとも似ているようで異なる、黒い制服に身を包み、例外なく黒い髪をした娘たちなので、そう呼ばれている。
「貴女がたは言葉を用いない。だから、こういう態度で示すわけですね」
 微笑んで、でもヴァートは溜め息に似た息を吐いた。さすがにちょっと緊張した。
 目の前にいるのは黒い制服の娘。手に銀の柄のナイフを握ったまま、ヴァートより背の高い黒姫は、彼女たち特有の無表情でこちらを見ている。
 と、そのとき、場違いなほどに軽く響く足音に、ヴァートはようやく襲撃者たる黒姫から目を外した。外すことが出来た。
 見れば彼女が……ヴァートが唯一名を知っている黒姫が、こちらに向かってきている。彼女の視線はヴァートに向いている。まるで同僚たる襲撃者など目に入っていないかのようだ。それがなんだか嬉しくて、目を細めて手を伸ばした。彼女は触れられるところまでやってきた。
「ヴァートさま、お怪我は?」
「ありませんよ、そんなもの」
 自分を心配しているのか、いつもよりやや強張った表情ですら、いとおしく思ってしまう。そっと彼女の背中に触れ、そっと自分のほうに引き寄せる。
 と、そのとき。
 複数の視線をいきなり感じて顔を上げた。
 ……ぎょっとした。
 ヴァートは、名も知らぬ黒姫たちに、取り囲まれていたのだ。