終章 夜明けの翼
大風車に登って、ロープを引っ張るヴァートを、ツァイが呆れた顔で見上げている。
「師匠ー、見てるとすごく怖いんだけど……」
「じゃあ見ないでください」
「そりゃないだろ」
ぼそ、と呟いたツァイの言葉は、地上からはるか高いところにいる風車技師には届かない。
ぐいっと体重をかける。ぎゅうっと絞られた結び目に満足する。
ふと地上に目をやると、ツァイが口をあけてこちらを見上げ目を凝らしているのが見えた。
子どもみたいだ、と思って、笑って手を振る。
すると彼はとたんにちょっと怒ったような素振りを見せる。
危ないだのなんだの、言っている。
まあ、ツァイの気持ちは分からなくはない。
岬の町にあったものよりも大きな風車に、こんな日が昇るより前の薄暗い時間に満足な道具もなく登っていき、修繕を始めたヴァートは、それはそれは地上から見たら危なっかしいだろう。
小さなヴァートがますます小さく見えることだろう。
でも……ツァイには、見えているだろうか。ヴァートが笑みを浮かべているのが。
いやきっと、彼は気付いているのだろう。でなければひとつしか歳の違わないヴァートを、師匠と呼んでいつまでもくっついているはずがない。
こんな、亡国の王都で。
ヴァートが降りていくと、ツァイはすぐさま寄ってきた。
「どうです? 僕の大風車は」
「すごいよ、あんたは」
心底呆れたようにも、感心したようにも聞こえる応答が返ってくる。
「でしょう。この世界に僕より風車に精通している技術者はいませんよ。さて」
ことさら自慢げでもなくさらりと言い放つと、ヴァートは歩き出した。
足元は薄暗いうえに、どこから飛んできたのか瓦礫の破片が転がっている。
「師匠? どこ行くんだよ」
「とりあえず王宮の中を使えるようにしませんとね。あと肝心な……知ってますか、王宮の地下には粉ひき場があるんですよ。貯蔵庫も確認しないといけませんし」
口にすればするほど、やることは山積みだ、と思ってヴァートは歩調を早める。ツァイが急いで追いかけてくる。
ゆっくり眠ってなどいられなかったヴァートと違って、彼は休んでいてもよかったのに、師匠師匠と後ろをおいかけてくるのだ、ツァイは。
大風車台が立っているのは、もと王宮の屋上部分だ。少々破壊されているが、そんなにひどくもない。この屋上の両端に階段がついている。
「な、なあ師匠、あんた一体ここでなにする気だよ?」
「なに、と言われましてもねえ」
ヴァートはともすると暢気そうにも聞こえる調子で言った。昨日、そして今朝登ってきたのとは反対側の階段に向かう。
「ここは森の王国ウィンダリアの王都なので」
「は?」
「森はなくなりましたけど」
「え?」
ぽかんとしているツァイのことなど気にせず、ヴァートは立ち止まって腕を組んだ。むう、と眉間にしわを寄せて、まずは瓦礫の片付けが先でしょうか、と呟いた。こちら側の階段は、使えない。
そんな師匠の背中を、弟子は……穴があくほど眺めた。
「師匠!」
ツァイが呼びかけるとヴァートが振り向いた。が、弟子の横を通り過ぎて、すたすたと歩いて行く。
その行動を疑問に思ったツァイは、慌てて前方を覗いて、ほとんど瓦礫に埋もれている階段を見てぎょっとして、それから急いで師匠を追いかけた。あの人は、立ち止まりはしない。無駄なこともしない。たぶん、間違ったこともしない。だから、追いかける。
「師匠は、この国を……もういちどウィンダリアをつくる気なのか?」
そんなのは無理だ、という反発めいた意思と、本当にやれるのか、という期待めいた戸惑いが、ヴァートの背中にぶつけられる。
「……さあ」
ヴァートは、廃墟となった王宮のほぼ中央でやっと立ち止まり、星を読む弟子を振り向いた。
人に天使のようとさえいわれる愛らしい顔に、ちょっぴりの思案を浮かべる。
「それより君に聞きたいことがあります」
「な、なんだよ」
「ウィンダリアの星は、いま、どんな色をしていますか」
一瞬、ものすごく強烈に翡翠の瞳に射抜かれたような気がして、ツァイが立ちすくむ。
けれどヴァートは答えなど待たずに目をそらした。
その視線が向けられたのは……空。
大風車ではなく、それを背にして、空を見上げた。
「ああ、星は夜でないと見えないのでしたね」
「え、ああ、まあ」
「僕はこの国の森が大好きでした。ここからの風景も大好きでした」
「……ああ」
ツァイが見下ろす先には荒野しかなく、ヴァートがかつて見ていた町と寄りそう森は見えない。
けれど。
「森が失われたのは本当に残念なのですが、ひとつだけ思いがけずいいことがあります」
「……え?」
なにを言うんだろうこの人は、とツァイがヴァートの顔を見ていると、師匠はちらりと弟子を見た。
「僕ではなくてあちらを。ごらんなさい、夜明けです」
ツァイが慌てて目をやると、荒野の果ての地平線から光が昇ってくるところだった。
世界が、照らされる。
夜から朝へ切り替わる、目覚めの瞬間。
ヴァートはこの時間が好きだった。だからこんな時間に風車を見にきたのだ。自分を追いかけてきてくれたツァイにも見せてやりたいと思うのは当然だ。
「……翼」
ぽつり、とツァイが呟いた。
「はい?」
「師匠には、羽が生えてるみたいだな」
見晴らしがよくなって、明るさを増したような夜明けの光から目をそらし、隣に目をやった。
「夜明けの光の中にいる師匠は、翼があるみたいだ。あんたはどこまで飛んで行くんだろう」
「なんですか、それは。星詠みの予言ですか」
「ちがうって! ……なんか、そんなふうに思っただけ!」
なんだか恥ずかしがっているツァイに、ヴァートはいつもの笑みを浮かべた。
「どこまで。さあ、どこまででしょうねえ」
翼か。
それがあったら、自分は空を飛ぶだろうか。
……いや。
「まあ、行き着く先なんてわかりきってますけどね」
「は? それってどこだよ」
ツァイは目を丸くするが、ヴァートには息をするくらい簡単なことだ。
たとえ翼があったとしても、きっと、それでも自分は、風車に登ってロープをひっぱっているんじゃないか、と思う。
だって。
「僕は、ウィンダリアの首席研究員、風車技師のヴァート・エメルダですから」