一章 風の娘と大地の盾

 風月から芽月に変わって、急に風が穏やかになった。
 ここにいても寒くないし。
 今日は森の向こうの湖もよく見える。
 その畔の王宮が湖面に逆さまに映っているのまで見える。

「シルフィー?」
 遠くから聞きなれた声がする。
 シルフィを呼んでいる。
「どこにいるんだー?」
 きっとシルフィの姿も影さえも、見えないだろうけれど、声は確かにシルフィのいる近くを探している。
 どうしてわかるんだろう。
「このへんにいるんだろう? 降りてこいよー」
 声の主がだれなのか、考える必要もなかった。
 シルフィを探しにくるなんてスルヤに決まっている。
 もう一度湖と王宮を眺めて、雲の多い空を眺めて、息を吸って、吐いて、それからシルフィは降り始めた。
 だれにも登ってこられない、村で一番高い木のてっぺんから。



 シルフィのお気に入りは、村で一番高いこの木だと、スルヤは知っていた。
 いつもではないけれど、よくこの木に登っている。
 スルヤだって村の男の子たちだって、子どものころはみんな木に登ったものだけれど、シルフィのように高く登れる子はいなかった。
 そしてシルフィのように長いこと登っている子も。
 呼びかけてからしばらく待っていると、上のほうの枝がかさかさと音を立て始めた。
 さらにしばらくして、ようやくシルフィの白い素足が見えて、スルヤはちょっと目を細める。
 シルフィはまるで階段を下りてくるかのように、自然に枝や幹に足をかけて、あっという間にスルヤの目の前に舞い降りた。
 天使みたいだ、と思う。
 シルフィには本当は翼があって、いつか自分の前から飛んで行ってしまうのではないかと……。
「スルヤ?」
 シルフィが下から覗きこんできた。
「あ、ああ……」
「どうしたの? ぼーっとしてるよ? おなかすいたの?」
 無邪気な言葉にスルヤは思わずほおが緩んだ。
「そんなことはないよ。でもシルフィはおなかすいたんじゃないか?」
「そうかな?」
 と小首をかしげたとき、シルフィのおなかがきゅるると鳴った。
「あれ? すいてるのかな?」
 自分のおなかを不思議そうに見下ろすシルフィがおかしくて、スルヤは笑った。
 そして、手を伸ばした。
「すいたってさ。ほら帰ろう。おまえ今日の午前はずっと木の上にいたのか?」
「うん、そうだね」
 素直にスルヤと手をつないで歩き出す。
 自分が呼びに来なければ、きっと彼女は昼食のことなんか思い出さなかったに違いない。
 ふたりが住んでいる小さな家が見えてくると同時に、パンが焼きあがるいいにおいが届いた。
「うわ、なんだかすごくいいにおい! メリエール、なにか張り切ってるのかな?」
 シルフィはわくわくと声を弾ませたが、スルヤはおかしい、と思った。
 ……本当は今朝から思っていたのだ。
 ここの管理人であり自分たちの世話人であるメリエールが、朝食のあと掃除をするのはいつものことだったが、その様子がなんとなくいつもとちがうような気がしてならなかった。
 今朝だってパンとミルクと卵の朝食をしっかり食べたし、パンはまだ保存用のものが残っていたはずなのに、どうしてこの時間に焼いているのだろう。
 シルフィに手をひかれるように部屋に入ると、年下のふたりがいつもどおりけんかをしていた。
 が、帰ってきたシルフィを見てわれ先にと話しかけてくるので、スルヤは彼女から手を離して、メリエールのもとへと向かった。
「ただいま、メリエール。シルフィを連れて帰ったよ」
「あら、おかえりなさい。また木の上にいたの?」
「うん」
 メリエールは振り返るとスルヤの全身に目を滑らせた。
 なんだか、いやだった。
 メリエールはいつも、こんな目で見ただろうか。
「さあみんな、ごはんにしましょう。カーティ、そんなにシルフィをひっぱらないの」
 けれどテーブルに向かっていくメリエールはいつものやさしい女の人で、スルヤにはよくわからなくなった。
 
 答えは、食事が終わってすぐに、扉をノックして訪れた。

「村の孤児院というのは、ここだな」
 メリエールが開けた扉の向こうには見たことのない服を着た人が立っていた。
 それが騎士団の制服と知るのは後日のことだが、腰に剣を佩いた大人の男の人が部屋に入ってきて、子どもたち……すなわちスルヤの他の三人はそろってスルヤの背中に隠れようとした。
 男の人は寄り添いあう四人をひとりずつ見下ろした。
「女の子は風だな。小さい少年は水と火。わかりやすい特徴だ」
 よくわからないことを言って、最後にスルヤを見つめた。
 正面から見据えられて、スルヤは目をそらせなくなった。
「君は地の属性だな」
 自分に向かって言われているのはわかったが、意味がわからなくて返事が出来なかった。
 すると男の人はすっと手を伸ばして、指差した。
 スルヤではなく、その足元にくっついているカーティを。
「そのやんちゃそうな水の少年を、君は受け止めることができるだろう」
 スルヤは、少し、眉をひそめた。
「その気の短そうな火の少年をなだめることもできるだろう」
 次に指差された、スルヤの右腕にくっついていたレンが、なにか不満を訴えるのを感じた。
 そして男の人の指は、レンからシルフィへと向けられた。
「でも……その風の少女が飛び立っていくのを、君は止められないだろう」
 ずき、と胸が痛みを覚え、同時にスルヤは相手を睨みつけた。
 左手でシルフィの手を握った。
「あんたはっ」
 スルヤが声を荒げるとメリエールが驚いた顔をした。でも、気にしてられなかった。スルヤは普段、見知らぬ大人にいきなり食ってかかるような乱暴なこどもではない。でも。
「あんたはシルフィを連れに来たのか? 俺からシルフィを取り上げるのか?」
 そんなこと、許さない。シルフィを離したくない……!
「いいや、ちがう」
 けれどあっさりその人は首を振った。
 その人の目はまっすぐにスルヤだけを見ていた。
「わたしは君を連れに来たのだよ。スルヤ・ジュライル」
 自分の名前を呼ばれてスルヤは硬直した。
 琥珀の瞳で、この突然の使者を見つめるばかりだった。