一章 風の娘と大地の盾
「休暇、ですか」
スルヤは言われたことをぽかんとした顔で繰り返した。
目の前に座っている騎士は愛想の欠片もない表情で頷いた。
「おまえはもう正規の騎士だ。だから正規の休暇もとる権利がある」
「はあ……。しかし、自分はなにも」
「まあ別に、休暇だから何をしてもいいわけではなく、何かをしてはいけないというわけではない。おまえの好きにすればいい、ということだ」
以上だ、と言われてスルヤは部屋を追い出された。
午前の間は見習いたちは歴史や地理などをね授業を受けていて、養成所の中はとても静かだ。
「休暇、か……」
だから思わず呟いた言葉がやけに大きく聞こえた。
そんな権利が発生するなんて思ってもみなかったので少し驚いたが、なるほど言われてみればそういうものかもしれない、と思う。ずっとここにいても、訓練に参加するかしないかくらいの選択肢くらいしか思いつかない。
スルヤは窓の外を見た。
王宮は大きいと思っていたが、自分が大きくなるにつれ、そうでもないということがわかってきた。
目の前には湖があり、その向こうにこの国唯一であり最大である外貨を入手するための観光を売り物にした街がある。
そして森。
この国は……それでほぼすべてだ。
あの森を入っていくと中に小さな集落が点在している。そうした村のひとつがスルヤの……スルヤたちの故郷だ。
「帰って、みようかな」
スルヤは森に目を向けて、まるでそのさきが見えるように目を細めた。
珍しいものよりこういうほうが現実的だな、と思って選んでしまった自分に苦笑する。養成所は決して裕福でも贅沢でもないが、それでも残りものの食材というのはあって、たとえばパンのみみなどは、貧しい村には喜ばれる土産になるのだ。揚げて子どものおやつになったり、くずでも家畜の餌になったりする。
スルヤはそういうささやかな荷物を手に養成所を出た。そして昼前には村についた。たったこれだけの距離なのに五年も戻らなかったのはなぜだろうと不思議に思う。
自分たちの家……スルヤが産まれた年は大飢饉で、捨て子が国中に落ちていた、とあとから聞いたものだが、なので自分たちのために開かれた孤児院は間違いなく四人のためだけの家だった。
「メリエール?」
家の前の井戸にその人の姿を見つけ、スルヤは声をかけた。四人の母代わりだった人だ。
が、メリエールは顔を上げてスルヤを見ると、悲鳴を上げて水桶をひっくり返してしまった。
スルヤのほうが驚いて駆け寄る。
「ごめん、メリエール、驚かせてしまって」
「いいえ、とんでもありません」
あわててさがって頭を下げる彼女に、スルヤは伸ばしかけた手を止めた。
「本日はどのようなご用件でしょうか、騎士さま」
メリエールの言葉に、スルヤは立ちすくんだ。
騎士さま。
それはそうなんだけど、自分はまだ子どもで、なにかすごいこととか、偉いことをしたわけではない。
ちょっと頑張って、この青緑色の制服を手に入れたそれだけで。
「……違うよ、メリエール。俺は今日は休暇なんだ。一日時間ができたから久しぶりに実家に戻ってきただけなんだよ。はい、お土産。カーティとかわりばえしなくてごめんね」
努めて自然に微笑んだつもりだけれど、うまくいっただろうか。
メリエールは顔をあげ、まじまじとスルヤを見た。
「えーと。あなたはお元気ですか? シルフィは?」
微笑んだまま優しく問いかける。大丈夫、こういうことがスルヤは得意なはずだ、と自分に言い聞かせる。
メリエールはそれでもずっとスルヤを見つめ、再びうなだれた。
「おかえり、なさいませ、スルヤさま」
そしていくぶん緩和した口調で迎えられた。
彼女は差し出した土産を受け取り、それがなんなのか気づくと少し表情がほころんだ。
「スルヤさまはシルフィに会いにお帰りになられたので?」
まるでおそるおそる言われて、スルヤはわけもなく胸がざわついた。
「それだけじゃないけど、まあそれもあるかな。今いないんだったら村を見て来るよ。シルフィの好きだったお茶の葉も持ってきたけど、まだ好きかな?」
するとメリエールはじっと渡された袋を見つめた。
「シルフィは……」
メリエールの言葉はかたかった。聞かないほうがいいのかもしれなかった。
いや。
「数日前から、姿が見えなくなっているのです」
今日、自分は。
どうしてこの村に戻ろうと思ったのだろう。
スルヤは胸のポケットに手を当てた。
彼女のために持ってきたお土産が、そこにはあった。
シルフィは、姿が見えなくなったその日まで変わったところはなかったと、メリエールは言った。少なくともメリエールの目にはそう見えた、と。
「木の上に登ったまま、なんてことはないよな……?」
スルヤの知っている幼い頃のシルフィは、姿が見えないと思ったらいつも高い木の上に登っていたものだ。
地上から見上げても木々に隠れて見えないような高いところへ。
スルヤには、彼女はそこにいるとわかっていても、遠くて届かなかった。
シルフィのお気に入りは、村で一番高いあの木だと、スルヤは知っていた。
子どものころは遠いとも思わなかった距離だが、懐かしい道をたどって行くとそれは思ったより遠かった。
たった五年前のことなのに、スルヤは背が伸びたし、騎士養成所でいろいろなことを学んで視野が広くなって……そして、過去は過去と思えるようになってしまった。
シルフィは……変わっただろうか。
あの、風のように自由な少女は。
ひとり村に残されて、変わらないまま過ごしただろうか。スルヤと、ただ同じだけの年月を。
その木を見つけられなかったらどうしよう、と不安に思ったのははじめてだけで、目にするとなぜかそこだ、とわかった。
いつも呼べばシルフィが降りてきた木。村の周辺では一番高い木。といっても下から見上げただけでは一番高いのかどうかはわからず、シルフィが言うからそうなんだと知っているだけなのだが。
「……シルフィ!」
スルヤは呼びかけた。
いつもここからこうして彼女の名を呼んでいた。
少し待てば、シルフィは降りてくるはずだった。
でもシルフィは、あの日のようなまぶしい素足で舞い降りてくることもなく、スルヤの知らない五年という歳月を埋めてくれはしなかった。