一章 風の娘と大地の盾

 メリエールの待つ家に戻ると、彼女はささやかな昼食を用意して待ってくれていた。
「シルフィは……どうしていなくなったの」
 スルヤは子どものように、それだけを口にした。答えを求めていたのかは、自分でもわからなかった。
 出迎えてくれたメリエールは、スルヤとは目を合わせなかった。
「さみしかった……のだと思います」
「うん」
 メリエールはいかにも妥当な答えを用意していた。その口調も態度も、あきらかに身分を意識していた。
 うつむいていたスルヤは顔を上げ、養母をうかがった。彼女は確かに五年分の歳を重ねていたが、自分の記憶にあるほどやつれても疲れた顔でもなかった。
 ただスルヤを……否、スルヤが身にまとう騎士団の制服が気になるようだ。
 彼女は……こんな人だっただろうか。
「シルフィとあなたは、ずっとふたりだったんですか、この四年間」
 スルヤがここを出たのは五年前だが、カーティスとレンブラントが養成所に来たのはスルヤより一年あとだ。
「ええ……ずっとふたりでした」
「それならシルフィはずっとさみしかったはずだ」
「そうでしょうね」
 なにか違和感を感じつつ、スルヤは言葉にすることでその理由を探した。
 きっと一番さみしかったのは四年前、カーティスとレンブラントがここを出たときのはずだ。
 三人のうちふたりがいなくなるとは、すなわち自分ひとりが取り残されるということだろう。
 十歳の子どもには周囲の都合など関係ない。
 でも、さみしいと思っても表面的にはそれまでの生活を続けていたと、スルヤは知っている。カーティスがときどき養成所を抜け出すのは、あいつがホームシックになるのもあっただろうが、シルフィがさみしがっているからなんだ、とスルヤはとうに気づいていた。カーティスは口にはしたことがないし、言ってもきっとはぐらかしただろうけれど、がさつに見えて人の気持ちを感じとるのが上手いのだ、カーティスは。
 だから。
「だとしたら」
 だからこそ。
「どうしてシルフィは今更姿を消したんだ」
 自分もといって飛び出すなら、四年前だろう。いまとなってはもうシルフィも、幼いばかりの子どもではないし、ここで待ってさえいれば時折カーティスが顔を出してくれる。そしてきっとレンブラントやスルヤの話をするのだろう。
 先日カーティスが戻ったとき、シルフィはかわりないと言っていた。他ならぬシルフィのことを、他ならぬカーティスが気づかないはずがない。
 だから。
「理由はさみしいからじゃない」
 スルヤにはなにもわからないけれど、それだけは言えた。
 自分は一番に出ていったかもしれないが、シルフィやカーティス、それにもちろんレンブラントのことを大切な兄弟のように思っているこの気持ちは負けるつもりはない。
「あなたは知っているはずだ」
 目を合わさない管理人を見つめた。
「もう一度たずねる。シルフィはどこへ?」
 メリエールが、この制服を着た騎士を権力者だとでも思ってこの態度なら、スルヤは罪悪感なく強い口調で言えた。
 案の定メリエールはぎくりとして、おそれるようにスルヤを見た。それは母が子を見るのとはかけ離れた視線だった。
「いえ、知りません。わかりません」
 怯えたような態度が騎士を前にした平民の一般的なものかどうかなんて、スルヤはまだ知らなかったし、こんなところで知りたいとも思わなかった。
 ただ、シルフィのことが知りたかったのに。
「じゃあシルフィは……!」
 スルヤがついに声を荒げそうになったそのとき、スルヤは自ら口をつぐんだ。
 訓練していた耳がその足音をとらえた。
 誰か、来る。
 でもそれはシルフィの足音ではない。
 そしてこれは……この雰囲気は。
 知っている知識と現実がとっさに一致せず一瞬混乱したスルヤの前で、扉が静かにノックされた。
 ぎくりとするメリエールにかわり、スルヤが早足に扉に向かいためらいなく開けた。
 そこには想像どおり、神官衣をまとった巡神官が立っていた。



 五年前のあの日に似ている、と、スルヤは思った。
 あの日も突然の来訪者があった。見たことのない服に剣まで佩いた大人の男の人が立っていた。それが、スルヤとシルフィの別れの日だった。
 メリエールが騎士養成所へと自分のことを通達していたのは、すぐあとに聞いていた。
 スルヤは今もあのときも、そのこと自体を恨んではいなかったが、あまりいい思い出とも言い難かった。
 そして今度は巡神官だ。
 スルヤはもうなにも知らない子どもではない。騎士と名乗ることを許された今の自分には、巡神官がそこにいる理由は簡単なことだった。
「シルフィを迎えに来たのか」
 ぽつりと言うと、扉の前の巡神官はなにも答えず、ただ騎士にたいする礼をした。
「今日、迎えが来る、て、シルフィは知っていたのか?」
 スルヤが振りかえってメリエールにたずねたが、孤児院の管理人は首を振るばかりだ。
「……どうかなさったのですか」
 言葉を口にして初めて、その巡神官が男なのだとわかった。
 巡神官とは、国中をめぐって神殿のない村で儀式を執り行うのが主な仕事だが、こうして孤児を引き取り神殿へと連れていくことも、役割のひとつだ。
「ええ、まあ。これはあなたに聞いていいんでしたっけ。引き取られる娘は、このあとどこへ連れていかれるのですか」
 スルヤが片手を剣に添えて巡神官にたずねると、一瞬の躊躇もなく返された。
「王宮の大神殿ですよ、騎士のかた」
 ああ、やっぱり、とスルヤは思った。
 今、王宮は国力回復のため神殿や騎士団を強化しようとしている。そのために最初に作られたのがスルヤたちのいる騎士養成所だと聞いている。
 そういった意味ではシルフィも自分たちと同じく、貧しい村にいるより大神殿に行ったほうが、あるいは幸せかもしれないが。ただ本当に幸せかどうかなんてことは他人にはわからないものだけど。
 スルヤは巡神官を中に通すと、入れ違いに自分は外へと出た。
 シルフィはどこにいるのだろう。
 たったひとりで行くあてなんてないはずだ。
(……行くあて?)
 真っ当に思えた考えに、ふとスルヤは立ち止まった。
 あては、ないかもしれない。でも彼女が行きたいと思うところなら、あるのではないか。
 ときどき会いに来てくれるカーティス。ほかのふたりは真面目に規則を守っているから会いには来られないけれど、仲良くやっているらしいと。彼女が知っているとしたら。
 スルヤは思い至って、慌てた。
 いや、でも自分がここに来るときは誰にも出会わなかった。だからといって、本当にあの道を彼女が歩いていないとも限らない。
 思わず早足になって村の入り口に向かう。
 ただ人が通って踏み固めただけの道。すぐそばに迫ってくる森を迂回して湖や王宮、そして騎士団へと通じている道。
 ……そのとき。
 スルヤはその道の先に耳を澄ませた。
 養成所で訓練を受ける前から耳は良かったが、今は聞き間違いではないか、空耳ではないかと真剣に耳をそばだてた。
 だって、滅多にないのだ。こんな田舎の村に……馬に乗った人が立ち寄るなんて。
 森の向こうからひづめの音がする。だが騎士のようなリズミカルさではなく……なんというか、どたばたした感じで。
 田舎の村の子どもたちは変化に敏感で、スルヤがそうだったように耳がいい。三人、五人と子どもたちが顔を出し、追いかけるように大人も一人二人と集まってきた。
 そして道の向こうにその砂ぼこりが見え始めた頃には多くの見物人が集まっていた。
 スルヤは……唖然とした。
 ありえないだろ、と呟いた。
 馬は、正規の騎士が乗る立派なものだ。遠くから見てもそうとわかる。そしてその大きな背に子どもの頭が三つ……。
「あ、あいつら……」
 スルヤはやっと状況を理解し、それからぎょっとした。ちょっと待てよ、カーティもレイも乗馬は苦手じゃなかったか?
「おい、みんな、さがれ! 危ないぞ!」
 だから村の子どもたちをさがらせようとしたが、子どもの好奇心に命令できるものなんて、この世にはそうそうない。
 そうこうする間に明らかに暴走している馬が、村に近づいてきた。
「す、す、スルヤー!」
 ……レンブラントの叫び声が届いた。スルヤは額を抑える。叫びというか、悲鳴だ。スルヤの名前を呼ぶのが精いっぱいという雰囲気がびしばし伝わってくる。
 馬の背にはレンブラントとカーティス、それにもうひとりがしがみついていた。騎士見習いがふたりもいるのに、まったく馬が制御できてない。
「レン! 手綱を引け! カーティ! 脇をしめろ!」
 スルヤが怒鳴ると、聞こえたのかふたりがややじたばたしたが、とりあえずしがみつくので手いっぱいらしい。
 まったく。ここに乗馬の得意なスルヤがいなかったら、事態をどう収拾するつもりだったんだ、あのふたりは。
 ……いや。
 スルヤがこの村に帰っているとわかっているからこそ、ふたりはこんな暴挙に出たのか。
 そのいとも単純明快な根拠にたどり着いたスルヤはふっと笑みを漏らし、そして表情を切り替えた。
 なら、自分がやるしかない、ということか。
「レン! カーティ! シルフィをつれて飛び降りろ!」
 もういちど怒鳴ると、すぐにレンブラントが馬から飛び降りた。ごろんところがる受身の体勢は無駄に完璧だ。
 続いてカーティスが腕にもうひとりを抱きかかえて飛び降りた。こちらはどてんっという感じで痛そうだったが、スルヤには気にかける暇はなかった。
 背中が軽くなってさらにスピードを上げてくる馬。上手くいくかは五分五分だ、と思いつつ、精いっぱいタイミングを読んで……スルヤは自分に向かって飛び込んできた馬の手綱を、掴んだ。地面を蹴って飛び上がる。
 突っ込んできた馬の早さと大きさに、野次馬の村の人々が悲鳴をあげた。
 馬にしがみつくことに成功したスルヤは急いでその背をよじ登る。
「どう! どうどう!」
 暴れていても騎士団の馬だ。訓練された馬は、正しい乗り手の正しい命令にはちゃんと従う。
 スルヤという乗り手を得た馬は、一変、騎手の手綱に従う賢い馬となった。
 その様子をぽかんと見ていた村の人たちの間からは、おとなしく、いやむしろ凛々しくぱかぱかと歩いて戻ってきた騎士と騎馬に、思わず拍手が起こったくらいだ。
 そこへ、へとへとな様子でレンブラントたちがたどりついた。
「レンブラント、カーティス」
 スルヤは馬上から弟たちを見下ろし、めったに呼ばない名前で呼んだ。
「……はい」
 ふたりはしょんぼりと返事をした。
「村の人に迷惑がかかるとは思わなかったのか」
 高いところから問いただすと、ふたりはさらに小さくなった。
「おまえたちが乗馬が下手なのを俺はよーく知っている。まさか、自分たちは知らなかったとは言わないよな?」
 スルヤの言葉にふたりは恨めしそうに兄を見上げる。
「俺の大事な幼馴染みたちが、怪我でもしたらどうするんだ」
 はあ、とため息をつくと、ふたりがぴょんとスルヤに飛びついてきた。スルヤが馬から降りたからだ。
「まったく、無謀にもほどがあるぞ」
「ごめんなさい、スルヤ」
「ありがとな、スルヤ」
 ともに育った兄弟たちは子どものように抱き合った。
 スルヤは、ともすると自分より大きな弟たちを両腕で一緒くたに抱きしめた後、三人を近くから見上げているもうひとりに向き直った。
「で、この無謀は君のためなんだよね、やっぱり」
 騎士と騎士見習いに囲まれると、小さくて身なりもみすぼらしい少女が。
 ただまっすぐに、スルヤを見上げた。
 あんまりにもスルヤだけをじーっと見つめるものだからレンブラントが肩をすくめてカーティスがそっぽを向いても、彼女には見えていないようだった。
 そしてやっと、その名を口にした。
「……スルヤ?」
「そうだよ、シルフィ」
 スルヤが微笑むと、少女は息をのんだ。
 大きな瞳は黒くて、でもよく見ると緑色をしている。
 そして、シルフィはずっとずっと会いたかったその人に、飛びついた。