二章 黄昏の女神と月の王
ギギは一口茶をすすって、渋いな、と思った。
騎士団の養成所には、食事を作ってくれる人こそいたが、基本的にはすべてのことを自分自身ですることが義務づけられていた。下手だろうがサボろうが、すべては自分に返ってくる。正しい仕組みと言える。
「やった、誰もいないよ」
ギギがひとりで茶と向き合っていた小さな食堂に、やたらきらきらしい声が入ってきた。
「今の時間、見習いのやつらは楽しい楽しい歴史の授業中だからなー」
「おまえたちだってついこの前まで、見習いだったじゃないか」
「うるせー。細かいことはいいんだよ」
「細かくはないだろう? ただ事実なだけだよ」
「スルヤー。カーティのことなんてほっといて、お茶にしようよ」
「俺をほっとくな!」
入って来たのは同僚たち三人組だった。
そのうちのひとり、スルヤとはわけあってまあまあの知り合いだが。
「わかったよ。お茶ね、なにがいい?」
「スルヤ、レンにそれをきくな……」
「ココナッツミルクティ!」
「ほら! やっぱり! レン、おまえまたそういう甘いもんを……!」
「いいけど、作ってくるからちょっと待ってろよ?」
それからぎゃあぎゃあ言い合う二人を置いて、スルヤがこちらに歩いてきた。注文されたなんとかティとやらを作るつもりなのだろうか。
「……ギギ!」
そしてギギの目の前まできて、スルヤはようやくギギに気付いた。
「驚いた。いたんだな。あ、うるさくして悪い」
「ずっといた。かまわない」
スルヤにいちいち答えると、彼は微苦笑を浮かべた。
「ギギはなにを飲んでるんだ?」
「茶」
短く答える。ギギはスルヤの手の動きを目で追う。
この騎士団養成所に送り込まれてくる子どもたちは九割が孤児だ。
特に十六年前の大飢饉のあと、この国には孤児があふれたという。その行き場のない子どもたちを使えるようにしようというのも、この養成所の存在理由のひとつなのだ。
そしてギギもスルヤも、例に違わず孤児だった。
最年長の部類になるふたりはもちろん正確な誕生日も年齢も分からないのだが、ここではふたりとも十六歳とされている。
そして国の規則に従い騎士と認められた、最初の養成所の子、というわけだ。
そういうのを一期生とかいうらしい。
「スルヤ、それはなんだ」
「うん? ああ、これはココナッツだよ」
「食べるのではないのか」
「ミルクと合わせて飲むと甘くておいしいんだ。今の季節しか手に入らないんだそうだ」
「甘いのか」
「ああ。ギギも飲んでみる?」
「……欲しい」
ギギが頷くと、スルヤは笑った。おまえは素直だなーと言った。
そんな台詞は彼以外の誰からもかけられたことはなく、ギギは少し顔をしかめた。
「あ、いま少し、反応した?」
「……」
自分でもよくわからず、沈黙のまま同僚を見返す。
スルヤの手元はてきぱきと動いている。
「さて出来た。なあ、よかったらあっちで一緒に飲まないか」
そんなふうに誘われることも珍しく、ギギは目を瞬かせた……らしい。
スルヤが微笑んだ。
「頼むよ。グラスふたつ、持ってきてくれないかな」
言うとギギの返事を待たず、スルヤは両手にグラスをひとつずつ持って歩き出してしまった。
ギギが言われた通り追いかけていくと、テーブルで待っていたあとのふたりが仰天した。
「うわ、ギギ!」
「どっから湧いて出やがった!」
口をぽかんと開け、目をまん丸にしている赤毛の美人顔のほうがレンブラント、椅子から滑り落ちそうになり、こちらを指差している背の高いほうがカーティス、といったと思う。スルヤとギギと同じく、姓は騎士団にもらったはずだ。皆、孤児ということだ。
ふたりは今年騎士になったばかりだ。
「こーら、ふたりとも、驚きすぎ。カーティ、指差すなよ、失礼だろ。ほらレン、お礼言って」
「あ、ありがと」
ギギがレンブラントの前にグラスを置くと、彼は我に返ったように礼を言った。そしてもうギギのことなんてほっといて、そのなんとかティにかじりついている。
「おいしい!」
「それは良かった。レンはこれがお気に入りだな」
「うん! 甘くておいしい。今しか飲めないなんてひどすぎる」
仲良し三人組がそれぞれ飲むので、ギギも自分用に用意されたそれを口に運んでみた。……初めての味だ。
「どう、ギギ、口に合うかな」
スルヤが少し不安そうな顔でたずねてきたので、ギギは思ったままを答えた。
「甘いが美味い」
「そうか、よかったよ」
ぱっと笑うスルヤ。レンブラントも顔を上げる。
「おいしいよね! これを甘すぎるとか文句を言うのはカーティくらいなもんだよ」
「美味いって言ってるだろ! ただ毎日出てきたら文句も言いたくなるさ!」
「じゃ、飲まなきゃいいじゃん」
二期生のふたり、ということはひとつ年下とされている彼らは仲良くじゃれあっていて、スルヤは眺めるだけで止めもしない。
「毎日?」
ギギがぽつんというと、カーティスがこっちを向いた。
「そうだぜ! いくら……どこだっけ? ほら、ココナッツが大量にまわされてきたからって、毎日これに付き合わされてるんだからな! あんたも余計なこと言わねーほうがいいぜ」
「失礼だなぁ。僕がいつカーティに付き合えなんていったんだよ」
「仕方ねーだろ、スルヤはひとりしかいないんだから」
止まらないふたりをスルヤが、そうきたか、と感心するように眺めている。
そしてギギの視線に気づいてこちらを向いた。
「いやね、ココナッツなんて誰も使わないだろう? 残って捨てることになるのももったいないし、レンは気に入ってるみたいだからいいかなーと思ってるんだ、俺としては」
嫌味でも言い訳でもなく、本当にそう思っているからそう言っている、という雰囲気のスルヤに、ギギのほうが感心した。
「あ。なに、いま、ギギの表情がちょっと動いた?」
レンブラントがギギの顔を見つめる。
「マジかよ。すげーな、スルヤは」
カーティスもギギの顔を見つめる。
「こらふたりとも。そんな失礼なこと言うんじゃない。すまないな、ギギ、こいつらも悪気はないんだが……どうも子どもで」
スルヤがフォローすると彼の幼馴染みたちは兄貴分に非難の眼差しを向ける。その、ころころと変わる表情は面白い。親しくしているわけでもないギギでさえ、レンブラントとカーティスの心のうちがわかってしまう。あれが子どもらしさだというのだろうか。
「もうスルヤったら、また子ども扱い」
「馬鹿にするなよ」
「馬鹿になんてしてないさ。おまえたちは素直でいい子だよ」
「だからそれが子ども扱いだって!」
あれが……素直というのか。
ギギにはないものなのだろうか。
湖の向こうの孤児院にいたときから、ぴくりとも動かない表情が不気味がられた。十年間、笑い声をあげたことのない少年は、一番にこの養成所に送られた。女の子だったら鴉の娘になっただろうといわれたが、褒められたのではないんだろうな、くらいにしか思わなかった。ギギはそれを辛いとも、悲しいとも、嬉しいとも思わなかった。
悲しいとはなんだ?
嬉しいとはなんだ?
その言葉は知っている。意味も……たぶん、知っている。
ただ、自分はそう思っているのかどうかはわからなかった。
自分にわからないのに他人にわかるわけがない。
「あ、でもギギ。気に入ってくれたんだったら、また一緒にどうぞ」
スルヤが言ったのは社交辞令ではなさそうだ。彼の人となりはこの数年で少しは理解しているつもりだ。
スルヤから目をそらし、レンブラントとカーティスを見た。ふたりはグラスのものを美味しそうに飲んでいる。文句を言っていたカーティスも、だ。ギギはちらりとスルヤを見て、目があってにこりとする彼に、わずかに頷いて、一口、彼らと同じものをすすった。
甘いな、と思った。