二章 黄昏の女神と月の王
「満ち欠けの周期はだいたい一カ月。動きを観測して明確なのは、月はいつも僕たちの世界を東から西へぐるぐるまわってるってこと。その速さもほぼ一定。一日で一周とちょっとまわってる感じかな」
レンブラントの観測記録を見て、ギギは正直驚いた。
湖のそばに寝転がって観測と称していたときは、こんなに本格的とは思わなかった。
「けど、ぼくひとりじゃこれが限界。神殿の人たちは月にお祈りとかするわりには法則とかはしらないし。この国には魔法使いもいないし」
ここは騎士団の談話室で、筆頭騎士も新米騎士も自由に論議が出来る部屋だ。
言ってしまえば休憩室のようなもので、今日のように筆頭騎士がそこにいることもままあったが、スルヤたちの会話の調子に変化はなかった。むしろこれ幸いとレンブラントはいろいろな意味でこの国一番の青年に質問までしていた。もちろん向こうも無下にはせず、ちゃんと答えてくれた。
レンブラントが筆頭騎士にたずねたところ、世界には月だの星だのの専門家がいるのだそうだ。そんなんを調べてどうするんだ、というカーティスのもっともな質問に返ってきたのが、魔法だった。
魔法使いにとって月というのは重要なものらしい。だから魔法使いのいない国には、月の専門家がいない。
もっともな話だ、とギギは思った。が、レンブラントはそうは思わなかったらしい。
「そりゃ、僕たちはいいよ。べつに知らなくても問題ない。でももしも、すっごいもしもの話だけど、もしも僕たちが魔法使いのいる国と戦争にでもなったらどうするの」
スルヤもカーティスもぎょっとした顔をした。そばでこちらの様子を眺めていた筆頭騎士は、さすがに目を細めただけだった。
「おまえ、なんってこと言うんだよ」
まるで言葉にしたら現実になるとでも言わんばかりにカーティスがあわてた。
そういえば、黄昏の女神は戦争をおこしたんだったのか、それとも戦争を終わらせたのだったか。
「うるさいなぁ。だからすっごいもしもの話って言ったじゃない」
「それでもおまえ、言っていい冗談と悪い冗談があるぜ」
「冗談なんかじゃないよ。仮定の話」
放っておくといつまでも続きそうな脱線を、ごほん、というわざとらしい咳払いでスルヤが止めた。
「カーティは平和主義者だからな、意外と」
「意外とじゃねーだろ!」
「レンは現実主義者なんだよな、見た目に反して」
「それ言わないで! ……って、スルヤ、怒ってる?」
穏やかな笑顔はいつも通りだが、幼馴染みたちはとげのある言葉に顔を見合わせ、それぞれ口を引き結んだ。
さすがだ、と感心する。なにがって、叱るふうでもなく口をはさんでさりげなく気持ちを表現したスルヤと、それをちゃんと読みとったふたりが、だ。
黙り込んだふたりにスルヤが改めて微笑んだ。
「それで? レンの話の続きは?」
「あ、うん。魔法使いと月の話だよね。だから……魔法が使えなくたって、魔法使いがどういうふうに魔法を使うのか知ってるほうがいいよね、て思ったんだ。対抗するにしても、逃げるにしても」
最後の一言にカーティスがあっとなにかに気付いたようだ。
それはきっと、逃げる、ということ。
ルイス王国の騎士団は伝統こそあるが、現状としてはかなりお粗末だ。我らが筆頭騎士はすごい人だとギギも思うけれど、言ってしまえば……それだけだ。
ギギとスルヤ以下、新米騎士の育成に力を入れているが、人を育てる事業というのは長い目で見ないといけないと言っていたのは、他ならぬ筆頭騎士だった。
剣術の稽古では容赦なく叩きのめし、笑顔も優しい言葉もない彼だが、王宮の偉い誰かに新人の育成が遅いとか非効率だとか文句を言われたとき、筆頭騎士は砂粒ほども遠慮せず、相手を言い負かしていた。新人たちはよくやっていると言い、将来有望なのが何人もいると言われ、同席していたギギはいたく驚いたものだ。その場にいた新人騎士はギギとスルヤだけだったが、スルヤもすごく感動したと言っていた。そしてどんな稽古のときより怖かった、というのは共通の認識だった。
あとでなにげなく筆頭騎士は言っていた。伝統があるのは素晴らしい。だがその上に胡坐をかいていた結果、騎士団には伝統しかない。つまり騎士といいつつも誰も戦えないのだ。これでは敵がいても対抗することなどできない。仮定できる選択肢は、おそらく逃げると言うことのみ。
戦うことなどできない。だから、逃げるのだ。
「けど……そりゃ、戦争するって言われても俺たちなんか戦力にもならなさそうだけど、さ」
カーティスがもぞもぞしながら言った。
「俺ら騎士団なのによ、戦う前から逃げの算段って、カッコ悪くね?」
おどけたように言う。
確かに、とギギも同意する。格好悪い、というか、情けない。
「カーティ、それ言っちゃだめだよ」
どうやらレンブラントも同意のようだ。ほっぺたを膨らませて友人を睨むフリをする。
「そうだね」
そしてスルヤはやはり穏やかな表情のまま、頷いた。
「でも俺たちにはそれでも逃げなきゃ。守らなきゃならないものが、あるからね」
しん、となった。
スルヤが、あわてた。
「あ、あれ? 俺、へんなこと言ったかな」
仲間たちをぐるりと見返すスルヤと、ギギももちろん目があったが、ギギはもちろん何も言わなかった。
「悪くない話だ」
すっと、どこか冷たい声音が空気を切った。新人たちの話に耳を傾けていた筆頭騎士だ。
彼はこうして話を聞いていることはままあるが、声をかけたり、ましてや意見を述べたりすることはなかった。
なにかたずねれば答えてはくれるが、それだけだった。
初めはそこにいるだけで怖いと思われていたが、さすがに何年も一緒にいるとだいぶ慣れた。そして誰もが、憧れていた。
その人が。
「悪くない話だと思う。スルヤ、カーティス、レンブラント」
三人をひとりずつ見た。
車座に座っていた三人はほぼ同時にぴょんっと立ちあがって敬礼した。
それには返事をせずに、筆頭騎士は歩み去った。