二章 黄昏の女神と月の王
図書室に入ると、珍しく先客がいた。しかもちょっと顔見知りだった。相手がどう思っているかはしらないが。
ややかたそうな黒髪の背の高い後ろ姿は、カーティスのものだ。
しきりと本棚を眺めているが、背表紙の上を視線が行き来するだけで、本を手に取る様子はない。
「なにか探しているのか?」
だからそう声をかけたら。
「のわぁっ!」
大げさなほど彼は驚いた。
「お、驚かすなよ! ほんっとあんたは気配ねーな!」
……よく言われる。
そういえばレンブラントにも同じような反応をされた。
ギギにはもちろん悪気はなかったのだが、ここは謝るのが妥当なのだろうか。それもよくわからない。
なので黙っていると、ま、いいけど、とカーティスが呟いた。
「カーティスはなにか探していたのか?」
改めてたずねると、カーティスは困ったような顔をした。
「探す……っていっても、俺、こういうところでどうすればみつかるのかわかんねーし。見つけても難しい本は読めねーし」
ひょいと肩をすくめてみせる。
なるほど、と頷く。
するとカーティスがギギを見た。
「なあ、あんたは神話とか詳しい?」
「神話?」
突然出てきた単語に、ギギはまたたきした。
スルヤとその友人たちと少しだけ親しくなって、ギギは驚くという感情を覚えた。最初は戸惑ったが、おもしろいと思えるようにもなった。
「いや、まあ、そんな専門的な話じゃなくて。こう……おとぎ話っていうか……」
「なんの神話だ?」
あわてて弁解するカーティスの心境などギギにはわからず、おとぎ話という言葉にひかれた。
そういうのは、好きだった。子どもの頃神殿で聞いた神様がなにを創ったという話は、変化のない毎日の中で唯一ギギの興味を呼び起こす要素だった。
「えっと、黄昏の女神って、いたよな?」
どうやら彼らの育った環境には神話やおとぎ話にふれる機会がなかったようだ。ルイス王国をはじめ世界の多くの国の神殿で、黄昏の女神は主神とされている。だから人々は多かれ少なかれ、その女神に親しんでいる。あるいはカーティスは、ここ最近の神殿への出仕ではじめて知ったのかもしれない。
だとしても、ギギは笑わなかった。自分たちには足りないことがたくさんある。王宮の人々にあれは孤児だとあからさまにささやかれても、真実なので仕方ない。
「詳しくはないが、少しは知っている」
ギギは淡々と口にして、手近な椅子を引いた。
驚いた顔をしたカーティスが、けれど聞く気があるらしく、同じく近くの椅子を引き寄せた。
「黄昏の女神は、現在の神殿では主神だ」
「らしーな」
「世界はただ終わりに向かって進んでいる。そしてその終わりを司るのが黄昏の女神だ」
「終わりの神サマを信仰してるのかよ。なんでだ?」
この国、あるいはこの世界の大半の人が信仰している思想に対して、何故と問いかけられるのは、哲学者か子どもくらいだろう。
「黄昏の女神が微笑めば、世界は平穏に夜を迎えられるからだ」
「ははん、機嫌取りか」
わかった、というカーティスの表情の意味のほうが、ギギには理解不能だったが、わかってもらえたのならよいのだろう。
「じゃあ逆に怒らせたらどうなるんだよ?」
「……さあ」
「ふうん。なら世界が終っちまったらどうなるんだ?」
「それは……」
その問いかけは、ギギではない誰かが巫女にたずねていた、と記憶の隅にあった。その子はたしか泣きながらきいていた。世界が終ってしまったらどうなるのか。また自分はひとりぽっちになるのか、と。
周りの子どものことなどあまり気にとめてなかったギギだったが、そのときは少し共感したものだ。
ひとりぽっちではない、誰かと一緒にいて、初めて世界は動き出す。
「そのあとは」
だから、黄昏の女神の時代が終わると。
「月の王の治める世界になるんだ」
「はあ? それじゃ世界は終わってねーじゃん」
「そうだな」
うん、とギギが頷くと、カーティスはまあ、とどこか呆れるように言った。
「それで全部おしまいって言われるよりいいけどさ」
「……そうだな」
つまり今は夕方で、もうすぐ夜になるという意味だろうか。ならこの神話に、昼の時代はあったのだろうか。朝は?
「ところでさ」
カーティスがギギを見て言った。初めのころは絶対に目を見てなんか話さなかったのに、最近はちょっとちがう。
「その黄昏の女神ってどんなヤツ?」
「……?」
問われた意味がわからず彼を見返すと、向こうも少し気まずそうにした。
「ほら、神殿に行くだろ、俺ら。なんかさー、レンのやつがやたら人気で。あいつ見て泣きだしたばーちゃんには参ったぜ」
……初耳だ。確かにレンブラントは女神のように美しいが。
「ああ、そうか」
ギギは急に思い出した。そういえば自分もそう思ったことがあったのだ。慣れると当たり前なので忘れていたが。
「それは、レンブラントが黄昏の女神に似ているからだろう」
「似てるって、相手は女神サマだろ? 誰も会ったことねーじゃん」
「それはそうだが……黄昏の女神は長くて美しい赤い髪をした、憂いを秘めた美少年のような女神だそうだからな」
ギギの言葉に、カーティスはぽかんと目を丸くして、そして、内側からはじけるように腹を抱えて笑いだした。
「な……な……、なんだよそりゃ! は、腹がいてぇ!」
げらげら笑うカーティスを、ギギは笑いもせずに見つめた。
今なら少しはカーティスの気持ちがわかる、と思った。そんなのはレンブラントそのままじゃないか、と、そう思ったに、違いない。
レンブラントが昼夜を問わず、月の観測という名目で空を見上げているのは、それからも何度か見かけた。
そんな友人が黄昏の女神に似ているらしいとわかったカーティスは、逆にその話題に触れてこなくなった。
スルヤは……彼が何をどう思っているかは、実はギギにはよくわからないままだった。真面目な顔と穏やかな笑顔くらいしか思い出せない。もちろん怒ったり、驚いたり、困ったりもするけれど。
「ギギ、スルヤ」
筆頭騎士が名を呼ぶ。
ふたりの名前をそろえて呼ぶ。
ギギは今まで周囲のことをあまり気にしてこなかった。他人とのかかわりが希薄だった。それは養成所に来てからも変わらなかったが、ただそれでも筆頭騎士は別格だと思った。なにが、といわれても答えられないが、多分、彼の凄烈な存在そのものが特別なんだとギギの内側が告げていた。
ギギに命令できるのは、きっとあの人だけだ。
国に仕える騎士としては失格といわれようとも。ギギはそう思う。考えたわけではない。筆頭騎士に言われたわけでもない。ただそれが自然なのだと思った。それだけなのだ。
ギギとスルヤの次の年に騎士になった二期生は多かった。
なのでそれまでふたりに割り当てられていた仕事はだんだんと彼らに移されていき、ギギとスルヤは彼の側近のごとくつき従うようになった。
それが自然だった。これまでも、今も、それからこれからも。
なにがあっても、ずっと。