三章 夢のかたちと恋の歌

 いつも清掃する庭は不揃いの芝生のほかには何もないけれど、スルヤとふたりだととても素敵な庭に見えた。
 スルヤがちょっとかしこまって退出の挨拶をした後、振り返ってにっこり笑った。それからシルフィの手をとって歩き出した。シルフィはわずかも迷わずついて歩き出した。
「シルフィはここで、黄昏の女神のお話をきいた?」
 スルヤは昔に比べるとずっと背が高くなって声もちょっぴり低くなっているけれど、やさしいところはちっとも変っていなかった。
「うん、聞いた」
「どう思った?」
「レンのことかと思ったよ」
「やっぱり……そう思うよな」
 スルヤが苦笑する。
 そんなスルヤを下から覗きこんで、たずねた。
「騎士団でもレンは言われてるの、女神さまみたいって。レン、嫌がるでしょ?」
「ああ、大丈夫。騎士団の人は言わないよ。思ってるかもしれないけど、直接レンに言ってるのは見たことないな」
「そうなんだ、よかった」
 シルフィがにこっと笑うとスルヤはちょっと口をつぐんでシルフィの顔を見た。
「……シルフィは、やさしいね」
「そうかな? スルヤやレンのほうがずっとやさしいよ。あ、カーティも」
 いつも一緒でないと拗ねてしまうもうひとりの名前も急いで付け加える。スルヤも気付いてくす、と笑った。
「レンは、神殿に来るの嫌だって言わない?」
「あいつが? まさか」
「そうなの? ここに来たらみんながレンのこと女神さまみたいに思ってるよ? レン、嫌いでしょ、そういうの」
「そうだね。確かにいつもちょっと閉口してるね。今日なんか怒って帰っちゃったし」
「……レン、ちょっとかわいそう」
 シルフィがぽつんと言うと、スルヤが目を細めて笑った。
「はは、シルフィがそう言ってたこと、伝えるよ。そうすればレンも立ち直るね。ま、もっとも今日俺が君と話せたって言えば、俄然張り切って神殿に通うだろうけど」
「そうなの?」
「ああ、レンは君に会えるかもしれないから、神殿出仕の仕事をやってるんだからね」
「……そうなの?」
 シルフィは首をかしげた。スルヤがくす、と笑う。
「あんまり会えないけどね」
「わたし、まだレンのこと一度しか見てないよ」
 シルフィが言うとスルヤはちょっぴり驚いた顔をした。
「え。シルフィはレンを見かけたことがあるのか。カーティは?」
「カーティはない。カーティも来るの? レンはスルヤと一緒に来た最初のとき、ちょっとだけ見かけた。それだけ」
「そうか……」
 スルヤはなにか言おうとしたのかもしれないけれど、実際にはそれ以上は言葉を続けず、シルフィから視線を外し顔を上げた。
 シルフィはその横顔をじっと見つめた。
「……あれ」
 だから、スルヤがなにかを見つけたのにすぐ気付いた。
「どうしたの?」
「あ、いや。ここから俺の部屋、見えるんだなと思って」
「えっ?」
 シルフィもあわてて背伸びをするように視線を追った。
 青緑色の湖の向こうに騎士団はある。そのほとんどが王宮に隠れて見えないが、端っこが見えている建物がふたつあるのはシルフィも知っていた。
「どこ?」
「騎士団の建物は見える?」
「うん。ふたつ見える」
「じゃあこっちから見て右側の、背の低いほう。すぐ横に木があるだろう? あの角の三階が俺の部屋なんだ」
「窓が見える。スルヤがいたら灯りが見えるね」
「ああ。わかるだろうね」
 シルフィはわくわくした。スルヤが近くにいることはわかっていたけれど、それでもやはり遠かったのだ。でもあそこにスルヤがいる。それが見える。とても、嬉しい。
「レンとカーティの部屋は?」
「うーん、ちょっとここからは無理だよ。同じ建物の二階の奥のほうなんだ」
「ひとりひとりに部屋があるの?」
「いまのところはね。まだ騎士の人数が少ないから。増えたら二人部屋でもいい、ていう話をしているところさ」
「ふうん」
 神殿にはシルフィの知らなかった、そして今でもときどき意味のわからない決まりがたくさんあるけれど、きっと騎士団もそうなんだろうなあと思った。
 ここに来る前、スルヤは言った。最初はつらいと思うことがあるかもしれない、と。シルフィはそう思ったことはまだないけれど、スルヤは、あるいはレンブラントやカーティスは、騎士養成所でつらいと思ったことがあるのかもしれない。それでも、シルフィが神殿にくることを悪くないと言ったのはスルヤだった。
 だから、シルフィは怖くなかった。
 たったひとりでずっと何かを待っていたシルフィ。そこから知らない人がたくさんいる大神殿へ行くのに、不安なんてなかった。だってスルヤがそれでいいと言ったのだから。
「……シルフィ、ごめん。俺はそろそろ戻らないと」
 騎士団のほうを見ていたスルヤが思い出したように言った。
「うん……そうだね」
 寂しくないわけはなかったが、長いこといられるはずがないこともわかっていたので、シルフィは静かに頷いた。
「シルフィはつらいことないか」
 ぽつりとスルヤが言った。その言葉が、声が、シルフィの中にしみ込んでくる。シルフィは、微笑んだ。
「つらいことなんてないよ。だってここはスルヤやカーティやレンと、とても近いもの」
「……近い?」
 スルヤが少し不思議そうな顔をした。
「うん。みんなが行ってしまったあと、わたしはいつも木の上からあの騎士団を見ていたけど、遠かった」
「え、見えるのか。あの村から、ここが?」
 スルヤが驚くのも無理はない。ふつうでは絶対見えないはずだ、森の中の小さな集落からは。
「うん。あの一番高い木の上からなら見えた。でもここなら木に登らなくても見える。ずっと近くなったよ」
 にこり、と笑うと、スルヤがゆっくり微笑んでくれた。
「そうか。それなら良かった」
 近くなった。騎士団の建物も、幼馴染みたちも。
 顔が見られなくても、そこにいるのが感じられた。レンブラントは嫌がるかもしれないが、レンブラントの噂を聞くとほっとした。そこに、レンブラントがいるのがわかるから。レンブラントがいるのなら、きっとそこにはスルヤもいる。それにカーティスも。
「じゃあ、またね」
 歩み去って行くスルヤとこうして会えるのがごくまれでも、シルフィにはこの上なく幸せなことなのだ。だからスルヤの背中を見送ることは、寂しくはあるけれど、悲しいことではなかったのだ。