三章 夢のかたちと恋の歌

 それから何度か、レンブラントは歌の練習を見に来た。一緒に来るのはスルヤだったりカーティスだったりした。
 毎回シルフィは呼ばれるものの、あまり歌わされることはなく、ほかの二人の歌を一緒に鑑賞しているみたいなことになっていた。
 そして相変わらずレンブラントは昔のまま、普段はちょっぴり怒ったような顔なのに、シルフィにはとろけるような笑顔を向けてくれる。
 あの日みたいに放心してしまうこともなく、ごく普通なレンブラントのように見えていたけれど。
 その晩、シルフィは寄宿舎からこっそり抜け出した。もちろん今までそんなことをしたことはなかったのだけれど、やってみると簡単だった。
 そして湖に沿って走った。
 湖畔の清掃活動というのにまだ参加したことのなかったシルフィは、湖にこんなに近くまで近寄ったことがなかった。
 今夜は月が出ていないから、湖面が静かに夜空を映して薄暗く揺らめいていた。
 でもシルフィは湖なんてほとんど見ていなかった。
 スルヤに教えてもらった部屋の明かりから目を離さないように走った。
 ……湖畔を走るのは、心地よかった。
 遮るものもないので、風が自由だ。森の中や建物の中は、どうしても風の通り道に邪魔が出来る。風はそんなものをすべて避けることができて、いつも自由だけど。
 目指していた建物に着いた。一番端の長くて四角の建物だ。同じような窓が並んでいて、二階と三階を中心に灯りがいくつも付いている。
 ここがスルヤたちのいる寄宿舎、ということなのだろうか。レンブラントとカーティスも、このどこかにいるのだろうか。
 シルフィは神殿から見えていた、教えられていた角に立ち、一階の明かりのついていない窓の向こうに人の気配がないかそっと確かめた。
 大丈夫。
 その窓から両手を広げたくらいのところにある木……こちらも大丈夫。こんな細い木に登れるのはシルフィくらいだろうけれど、シルフィなら、登れる。
 そうときまればためらわずに飛びついた。思ったよりもつるつるする幹だったけれど、建物の三階分くらいあっという間だ。
 木にしがみついたまま、シルフィは耳をすませた。
 目の前の窓にはランプの光が揺れているのが見て取れる。
 いるのはスルヤだろうか。ひとりだろうか。一緒にいるのがほかの幼馴染みならよいが、それ以外だったら困るかもしれない。シルフィは、スルヤに迷惑をかけるために来たのではない。でも、部屋の中から話声はしなかった。
「……スルヤ」
 シルフィは呼びかけてみた。大きな声は出せない。
「スルヤぁ」
 いつも、いつも、スルヤはシルフィのことを見つけてくれた。
 部屋の中で人影が動いた。シルフィの呼びかけに気付いてくれたのだろうか。そしてそっと、カーテンの端が動いた。
「スルヤ!」
「……シルフィ?」
 窓の向こうで大好きな優しい顔が、シルフィを見つけて目を丸くした。
 それからいそいで窓を開ける。
「どうしたんだシルフィ」
「来ちゃった」
「来ちゃった、て……」
「ねえ、そっちに移ってもいい?」
 あきれ顔のスルヤは、でもすぐに一歩下がった。シルフィは迷わず、飛んだ。
 細い木がゆさゆさ音を立てて揺れたけれど、シルフィは難なく部屋の中に降り立った。
「……そういえば君は、木登りが得意だったね」
 窓を閉めながらスルヤが呟くように言った。シルフィはそんなスルヤを眺めながら答えた。
「そうだよ。忘れちゃった?」
「いいや。よく覚えてるよ。君が好きだった木だって憶えてる」
 スルヤはそう言ってなんだか思い出すようなちょっぴり遠い目をして振り向いた。そしてちょこんと突っ立っている小さなシルフィを少し眺めて、それから手を伸ばしてきた。
 シルフィは、ちょっとは背も伸びたけれど、やっぱり小さいままで、それにくらべるとスルヤたちは三人ともずっと大きくなってしまった。
 シルフィよりちょっとだけ背の高かったスルヤは。
「……シルフィ」
 今ではその腕にすっぽりとシルフィを包みこめるようになり、シルフィはそんなスルヤの胸の頬を寄せる。むかしみたいに肩に頭を乗っけて眠ったり甘えたりは出来そうにない。でも、スルヤと一緒にいるのが暖かいのは変わらなかった。暖かくて、心地よくて、安心できて、目を閉じたくなる。
「……それでシルフィは、俺に用事があったの?」
 優しい抱擁に身をゆだねていたシルフィに、スルヤが優しい声で言った。
「ん?」
「用なんかなくて俺にただ会いたくなった、ていう理由でも、俺としては嬉しいけど。どうなんだ?」
「んー? うん、会いたかった」
 シルフィがこくんと頷くとスルヤはやれやれと苦笑した。
「なんだ、なにか話があるのか。なに?」
 シルフィが口にしていないことまでスルヤにはお見通しみたいで、話を促される。
「うんとね。レン、がね」
「レン? ああ……あいつ、最近ちょっとおかしいよな? どうしてなのか、シルフィは知ってるのか」
「んー」
 知ってるのか、といわれると困るのだが、あれ、と思うことはあった。スルヤと話そうと思って来たのだけれど、いざスルヤを前にすると、レンブラントに隠れて話をするのは駄目なんじゃないかな、と思ってしまった。
 どうして、て理由はわからないけれど。それに自分が思っていることをスルヤに説明できる自信もないし。
 そう思ったことをスルヤにどう伝えようかと考えていたら。
「やれやれ。俺だけに会いに来てくれたわけじゃあないんだな」
 スルヤが抱きしめてくれていた腕をほどいてしまった。
 それが残念でシルフィは離れていくスルヤを目で追った。スルヤは、苦笑してシルフィの頭を撫でた。
「そんな顔をしなくても、俺はいつも君を見てるよ」
 そして……扉に向かう。
「ちょっと待ってて。レンとカーティを呼んでくる」