四章 真昼の月と黒の姫
廊下には命じたとおり誰もいなかったが、一階の客間からアジュールの執務室のある二階へあがると、窓の外から声が聞こえてきた。
この場所の東側には養成所が隣接している。ふと目をやると養成所の幼少組の子どもたちがそろって空を見上げている。なんだろうと思ったがまあ子どもというのはなんにでも興味を示すものだ。アジュールはすぐに意識をそらした。
執務室の前で待機していた新人騎士が敬礼する。
「スルヤ、ここはもういい。仲間たちのところへ戻れ」
命じると模範的な返事をしてから彼は、アジュールの後ろにいた客人に礼をし去っていった。
そして部屋に入ると、意外なことに黒の客人が先に口を開いた。
「先ほどの二人は、貴方が育てた騎士ですか」
アジュールはちらりと振り返り、いや、と答えた。
「俺が育てたというようなことはなにもない。少し剣の稽古をつけてやっただけだ」
そして客人に椅子を勧めると、彼女はおとなしく座った。客間で立ったままだったのは周囲を威圧していたのだろうか、と勘ぐる。
「……しまったな。スルヤのやつに茶を淹れさせればよかった」
あいつは手先が器用でそういう仕事が上手いのに。
「お気遣いなく。お茶を出されてもわたくしたちは飲みませんし」
座った彼女が穏やかに……さらりと言った。茶器に手を伸ばそうとしていたアジュールは客人を振り返り、そういうものか、と自らも彼女の向かいに座った。そんなアジュールの行動を彼女はどこか面白そうに眺めている。
「さて。貴女は俺と話をしにきた、ということでいいのか」
「はい」
「では俺のことなど当に調査済、ということか」
アジュールがその灰色がかった青の瞳で向かいを見れば、彼女は 相変わらず作りものめいた表情で唇だけを動かした。
「アジュール・サフィネル。十五歳で筆頭騎士となり、まもなく騎士養成所を考案、竣工、国内の孤児を集め騎士の育成を始める。五年後、十五歳で騎士になったものは十数名にのぼる」
彼女が読み上げるように言うと、アジュールは肩をすくめた。
「それは俺の経歴じゃない。騎士団と養成所の話だろ」
「はい。けれどこれは立派な一国家事業です。十五歳の少年がすることではありません」
「……ほかにするやつがいなかったから、仕方なかったんだ」
むす、としてアジュールが口をへの字にした。どうも……誉められている気がしない。
「で?」
アジュールはぎろりと相手を見た。
「その点で俺が評価されているというのは理解した。そんなアジュール・サフィネルにどんな話を持ってきたんだ、鴉の娘」
アジュールはわざとその軽蔑を含む呼称を口にした。
どこの国にも属さず、しかしどこの国にでも属する、国家とは異なる諜報機関だといわれている。スパイ活動から暗殺まで、なんでも請け負うという噂だ。
特徴は黒い衣装。そしてすべて女だということだ。徹底した訓練を受けているらしく、活動中は一切口を聞かず、名を名乗らない姿勢を貫いている。そこから鴉の娘たちと呼ばれるようになったらしい。黒くてどこにでもいる怪しいものたち、と。カラスは絶対に人になつかない。
その中枢がどこにあるのかは知られていないのだが、活動員、通称黒姫たちは案外どこででもお目にかかれる。南のウィンダリア王国や光の王国アンデルシアでは彼女たちは重宝されているという。反対に北のセグーン帝国や魔法王国ファーンではいとまれているらしい。
そしてここ、湖の国ルイス王国においては……彼女たちの姿は皆無だった。世界に影響力を持たない弱小国家だと認められているようなものだ。
だから老騎士たちは彼女たちを知っているし、恐れてもいる。
「貴国の騎士養成所は軌道に乗ったものと拝見しました」
「ああ、ありがたいことにな」
アジュールはぶっきらぼうに頷く。けれど態度に反して一番心を砕いてきたのは間違いなくアジュール自身だろう。
「わたくしたちは今まで貴国に対して傍観の姿勢を保ってきました」
ちら、と正面の女を見る。さっきからちっとも表情が変わらない。訓練であんなふうになるものなのだろうか。
「ですが貴方のご意見によっては利害契約を結んでもよい、という我らの意思を伝えに来ました」
「……ずいぶんな話だな」
アジュールは溜め息をついた。と同時にほっとしたのも事実だ。
傾いていた国が、やっと立ち直り始めたという意味になる。彼女たちから、一国家として認められたのだ。
「俺個人的には肯定的に受け止めるが、そういう話はふつう、王宮へ持っていくもんじゃないのか。我が国は伝統ある王権国家だ」
一応主張してみる。自分の言っていることは間違っていない。
が、彼女は相変わらず作りものの表情を張り付けたまま、唇と、またたきする瞼以外をまったく動かさなかった。
人々が不気味がるのも少しわかる気がしてくる。
「わたくしは、申し上げました」
「うん?」
「この国で話がわかるのは、筆頭騎士ただひとりだと」
彼女があっさり言うのでなにげなく聞いていたが、改めて言われて、そしてその真意に触れてアジュールはぎょっとした。
確かに王宮の連中のことも、老騎士と同じように使えないやつらだ、と心の中ではずっと思ってはいたが。黒の彼女たちはそんな彼らをすべて切り捨て、こともあろうか国王陛下さえも通り越して、自分のところへやってきたというのか。
「貴様……どういうつもりだ」
その、本当の意味は。
「俺に国を乗っ取れとそそのかしにでも来たのか」
そうとも取れる。アジュールただひとりに手を貸すというのなら。
けれどもし彼女たちがそう思っているのなら交渉は完全に決裂だ。アジュールはこの国を思って、傾国を憂いて騎士団を立て直そうとしているのだから。
怒りの含まれたアジュールの声は、騎士ですらびくりとするようなものだったが、彼女は変わらぬ表情で座っていた。
「どのように受け取られるかは貴方次第です、アジュール・サフィネス」
変わらぬ口調で。
そう、言葉を封じているはずの彼女たちが、こうしてしゃべるのはどういう意味なのか。
アジュールは相手を睨みつけたが、そこから何かを読みとるなど、不可能だった。