四章 真昼の月と黒の姫
年長組の少年たちが黒姫を囲んでいたのは、誰かが魔法王国のことを彼女にたずねたかららしかった。すると彼女はすらすらと少年の問いに答え、そのやりとりに別の少年が加わり、あっというまに人だかりになってしまった。
アジュールが通りがかったときには新人騎士や幼年組まで集まっていて、養成所のほかの部分がからっぽになったかのように思われた。
歩み寄ってくるアジュールに気づいた騎士は敬礼を寄越し、少年たちはそれぞれなんらかの表情を浮かべるが、まあたいしたことはないだろう。
「ずいぶんと人気者だな」
アジュールが声をかける前から、彼女はとっくに自分に気付いていて、まっすぐこちらを見ていた。
その表情は……やっぱり相変わらずだった。子どもたちの前でも同じらしい。
「あら、妬いていらっしゃるの?」
「……なんでそうなる」
微動だにしない顔で冗談を言ってもおもしろくもない。
アジュールがこりこりとこめかみを掻くと、見習いのだれかが少し笑った。
「……なんだ、おまえたち。こいつの講義が聞きたいのか」
ぐるりと少年たちを見回すと、言葉での返事はなかったが、複数の顔に明確な答えが書いてあった。
「と、言っているぞ」
黒姫を振り返ってみる。口許を少し吊り上げた笑みの形のまま、彼女は少し、首をかしげた。それだけだった。
ほかになにもない国だが、湖だけは美しかった。
だが何年も手入れひとつしていないと汚れてくるのは当然で、騎士団では養成所の見習いたちと新人騎士が定期的に清掃に取り組んでいる。大神殿も巫女の見習いを抱えるようになってから、参加するようになった。
国の唯一の観光資源なのだから、王宮の連中ももっと考えればいいのに、と思う。
いつもは清掃に一緒に参加するアジュールだが、今日は湖畔から少年少女たちの様子を眺めていた。その隣に黒姫が立っている。
明るい日差しの下、見習いの少年たちは楽しそうに働いていた。なぜかというと、午後の眠い歴史の講義をつぶしての清掃活動だからだ。重要であってもつまらないものはつまらない。それに比べて掃除とはいえ、顔をしかめるような汚い作業があるわけではない、一種の慈善事業のほうが、十代の少年にとって楽しいのは自然のことだ。だからアジュールも、少々ふざけたり笑い合ったりするのを見咎めたりはしない。
「これもれっきとした国家事業ですね」
「些細なことだ」
「愛国心を育てる国家方針がないと、こういう事業は成立しません」
「あいつらにはあそびみたいのものさ」
「それが、いいんでしょう?」
黒姫の評価にアジュールは肩をすくめた。すべてがそう上手くいけばいいが、そうとばかりは言っていられない。いろいろやって、やっとここまできたのだ。ちっともそれを理解しない王宮の連中よりは、彼女の存在は確かに嬉しいのだが。
ふと、湖畔の草刈りをしていた少年たちが、そろって空を見上げているのが見えた。なんとなく視線を追いかけるが、アジュールにはなにも見つけられず、まあいいか、と目をそらした。
が、隣の黒姫が同じように空を見ていた。彼女はすぐにアジュールの視線に気付いた。
「月を見ているのですわ」
そして、答えをくれた。
「月?」
アジュールは言われてもういちど空を見上げた。やや欠けた月が青い空に白く浮かび上がっている。
「ここ数日、こんなふうにきれいに見えていますが……あと二日か三日ですね。昼の間見えるのは」
そうなのか、と思う。そういえばあいつらは何日か前もああして空を見ていたな。
「騎士団では月の運行の勉強はしないのですか」
「ああ。あいにく教壇に立つ人材がない」
「魔法に関する知識が浅いのも同じ理由ですか」
「ああ」
アジュールは苦々しく頷いた。あるいは王宮には、そういうことに詳しい人間もいるのかもしれないが、彼らは騎士団や神殿に力を貸す気はないらしい。どうして何もしてくれない王宮に、騎士たちが絶対従うものと決めつけているのだろうか、彼らは。アジュールには不思議でならない。
「まるで、王のようでうね」
「は?」
いきなり言われた単語に、アジュールはぎょっとした。
王? 王といったのか、この女は?
「……その言葉を軽々しく口にするな」
睨みつけると黒姫は恭しく頭を垂れた。その動作がまるで王に対する家臣のようで、アジュールはいらだつ。
「やめろと言っている」
「お気に障ったのでしたら失礼。ですがわたくしは、あなたの民であったらいいと思ったのです」
「やめろ!」
アジュールが耐えられず大声を出すと、聞こえたのか少年たちがこちらを仰ぎ見ていた。
今にも剣を抜きそうな雰囲気に、平然としているのは黒姫ただひとりだ。
どこかで作業をしていたスルヤとギギがそれぞれこちらへ向かって来るのが視界に入る。が、彼らを待たずにアジュールは踵を返した。
「午後の予定に変更はないと伝えておけ」
「はい」
アジュールの命令口調に少しも臆さない彼女の、あっさりとした返事を背中に受けて、筆頭騎士は立ち去った。
背を向けたかったのは彼女なのか、それともあるいは別のものなのか、アジュールにはわからなかった。