四章 真昼の月と黒の姫
彼女がアジュールにその申し出をしたのは、いつの間にか恒例になっていた彼女の魔法についての質疑応答の集まりのあとだった。
魔法についての話は、アジュールも知識が絶対的に少ないという自覚があるので、時間が許せば傍聴に行っていた。
見習いの子どもたちはアジュールの思いもよらないことをたずねるし、黒姫はいろいろなことを知っている。
彼女が黒姫などでなかったら、ぜひとも養成所の講師になってほしいものだ、などと考えてしまう。
が、そんな想像も現実の前にあっさりと消え去った。
「帰る、ということか」
「はい」
いつまでも彼女がここにいるはずもなく、黒の客人は立ち去ると告げたのである。
「正確には次の仕事に行くのですけれど」
「そうか……」
仕事、といわれて、心のどこかが動揺した。その理由がわからなかったから、アジュールは少し、混乱した。自分は子どものころから「わからない」という感覚が苦手だった。
「それはつまり、ここでの仕事が終わった、ということだな」
「とりあえず、一応は」
相変わらずの作りものめいた表情で黒姫が応える。
「とりあえずとはまた、あやふやだな」
「しかたありませんわ。子どもの頃の課題のように、仕事には終わりも完璧もありません」
「……確かに」
その返答にアジュールも納得せざるを得ない。だが、ひとつの仕事が次の何かにつながっているところは、課題も同じだ。
黒姫が淹れてくれた茶を、これも最後かと思う。
きっと今、なんとなく寂しいと感じているのは、この美味しい茶が飲めなくなるからだ。それから魔法の話が聞けなくなるからだ。茶器をみつめてぼんやり思う。
不意に、そのとき。
「アジュールさま」
名を、呼ばれた。
一瞬、自分のことだと気付かなかった。そして……彼女が実は今までアジュールの名を呼んだことがない、という事実に驚いた。そんなことも今更気付くなんて。
「……これを」
いろいろなことに頭の中が掻きまわされたような混乱というより落ち着かない気持ちで彼女を見返す。
彼女のことは黒姫だと、黒姫とはどういうものかというのを、一般常識の一部としてとらえていた。だから、自分は彼女のことをなにもたずねていない。だから名を呼ばれても、呼び返せる名を知らない。
「これ……は?」
黒姫はその黒の制服の胸にいくつかぶら下げている本来なら諸族などを示しているはずの徽章をひとつ取り外し、アジュールに差し出していた。通常それは紋と呼ばれる。たとえばアジュールの胸にはルイス王国の国紋と、騎士団の団紋が飾られている。
差し出されたものを受け取っていいのか迷って、見つめる。それは黒くて丸い紋だった。ルイス王国の国紋と形は似ているか。そこに……羽を象ったような見たことのない図柄が刻まれている。
「貴方がこれを見るのもお嫌だ、とおっしゃるなら、どうぞその机の引き出しの奥にでもしまっておいてください。必要となるその時まで、忘れてくださって結構です。ただし、ひとつお願いです。どこへでも簡単には捨てないでください」
その紋から目を上げ、彼女を見た。
そして、驚いた。
彼女は確かに微笑んでいた。
「これは?」
「わたくしたちが貴方に力を貸す、というお約束です」
アジュールは再び黒い紋に目を落とす。黒い地に黒い翼の図柄……。
「決して他者の手に渡ることのなきよう。貴方が持っていてくだされば、これは貴方の力となります」
重ねて言われ、アジュールは手を差し伸べた。
アジュールの手に置かれた紋は小さく軽いはずなのに、まるでずしりと重く感じるのはなぜだろう。騎士になった日に下賜された制服より剣より、小さな国紋のほうがずっと重かったのを思い出す。紋には、国や機関に所属するという責任が凝縮されている。
アジュールがそれを受け取ると、彼女は音もなく立ち上がった。
「それではお世話になりました」
「は? もう行くのか?」
「そう言いましたでしょう?」
当たり前だと言わんばかりの態度に動揺する。
受け取った黒い翼の紋を一度ぐっと握りしめ、胸のポケットに滑り込ませる。
そしてさっさと歩きだしている彼女を追いかけて、執務室を出た。
養成所のほうからは剣の練習をしている掛け声がきこえるが、彼女は子どもたちに一言残すつもりはないらしい。まあ、子どもたちの相手をすることになったのはついでというか、ただの成り行きだったのだから、そんなものか。
「それで。おまえはもう二度と来ないのか」
「……どうしてそう思われますの」
「俺に見切りをつけたように見えるぞ」
「それは違いますわ」
くすり、と笑った。
確かに彼女は笑った。
「では、次はいつ来る」
たずねると、彼女は少し首をかしげた。
「貴方が望むなら、いつでも」
彼女が言うと本気なのか冗談なのかちっともわからない。
表へ出るとどうするのかと思ったら、まっすぐに厩舎へと向かう。
「馬?」
「ええ。長距離の移動ですから徒歩では無理ですし、どうせひとりで馬をあやつるなら馬車より騎馬のほうが身軽です」
そう言って彼女が引いてきた馬を見て、アジュールは驚いた。とても立派な馬だ。さらにひらりと飛び乗った姿は見栄えもよく、騎士顔負けの雰囲気だ。
アジュールは……彼女のことも、黒姫のことも、何も知らない自分を自覚する。
知らないということすら知らず、知ろうともしなかった。
「それではアジュールさま。また」
なのに彼女は、アジュールの名を呼び、微笑んでくれた。
アジュールは返事も出来ず、ただ颯爽と走り去る後ろ姿を、目を細めて見送るしか出来なかった。
また。
そんな時が来るのか、アジュールにはとてもわからなかった。