六章 青い月団と荒野の星

「レンブラント! カーティス!」
 通りの向こうでぶんぶんと手を振っているのは、騎士団の後輩ダイングラムだった。
 彼を待つ一日は長かった。
 今か今かと通りの脇をうろうろしていたふたりの名を、大きな声で呼んで、少年は走ってきた。
 ダイングラムはまだ見習いなので、マントも剣も持っていない。
 小柄な少年は目の前まで来ると……ずいぶんと、汚れていた。
「来たなおまえ、待ってたぜ!」
「それで! 誰から伝言を預かっていたの? スルヤ? アジュールさま?」
 迎えるというよりはいきなり詰め寄った先輩ふたりに、ダイングラムは、急にぺたんと座り込んだ。
 え、と思うと、次はぽろぽろと、大粒の涙をこぼし始める。
 ぽかんとするふたりの周囲では、人々が泣いている小さな少年に気付いて足を止め始めた。
 レンブラントとカーティスは、慌てて手を伸ばした。
 どうやって、そしてどんな気持ちで、この少年はここまで来たのだろう、と、いまさら心を痛めて。


 出されたスープとパンにかじりつく様は、騎士団の後輩というより、飢えていた孤児だった頃の自分を思い出させて、レンブラントはなんだかいやな気持ちになる。
「落ち着いて食えよ、ダイングラム。なんだよ、全然食べてなかったわけじゃ……ないんだろ?」
 カーティスが少年に話しかける。
 ダイングラムは目だけはカーティスを見返しているが、手と口が食事から離れられないようだ。
 噂ではなく真実を、一刻も早く知りたいとは思うものの、ダイングラムの様子を見ていると、あまりせかすこともできなかった。
 生い立ちの同じカーティスも、同様らしい。
 騎士団は、孤児の集まりだ。
 王宮はよく、そういって馬鹿にした。
 そのツケをどんな形で払うことになったかは、正直レンブラントは興味がない。
 ただ知りたいのは騎士団の、その中でもただスルヤがどうなったか、ということだけだ。
「アジュールさまは」
 ようやく話すだけの余裕を取り戻したらしいダイングラムが、スープを大事そうに抱えたまま、その名を口にした。
 筆頭騎士アジュール・サフィネス。
 その名を耳にしただけで、背筋が伸びるような存在。
「騎士団のみんなを連れて南へ向かってるよ」
「南?」
「うん。正確な場所は未定だけど、今ならちょうど逃げ込めるから、て」
「……ウィンダリアに、てことか」
 カーティスが少しこわばった声で呟いてから、レンブラントを見た。
「うん。それで?」
 レンブラントは先を促す。
 ダイングラムはもっと情報を持ってきた感がある。
「レンブラントとカーティスは先行するように、て」
「先行、ね。それはアジュールさまから?」
「うん、そうだけど。合流についての詳細は、黒姫さまが伝令になってくださるんだって」
「あの姫さんに会ったのか!」
 カーティスが横から割り込んできた。
 まあ、気持ちはわからなくもない。
 そして……聞きたいことは、同じだ。
「おまえ、スルヤとギギには会ったか?」
「うん、会ったよ」
 にかっと笑ってダイングラムは答えた。
「話とか全然出来なかったけど。アジュールさまの後ろに立ってたよ。オレが使いに出されるのに、ここの場所を説明してくれたのはスルヤだったし」
「そっか」
 どうやらちゃんと合流して、ちゃんといつものポジションに立っていたらしい。ほっとすると同時に、ちょっと、なんだかなあ、と思った。
 どうしてスルヤはこういつもいつも抜かりないんだろう。
 まあ、それが出来るからアジュールさまも自分の側近にしているのだろうけれど。
「で、俺たちはウィンダリアに向かえばいいんだな」
 カーティスが表情を明るくしていった。
 ただ待っているだけなのは不安なものだ。
 アジュールさまも、スルヤたちも無事と聞いて、合流するために動くのだ。
 前向きな気持ちになるのは、わかるけど。
「ダイングラムも一緒に来るんだろ。おい、レン、景気悪い顔してんじゃねーよ」
「……うるさいなぁ。僕はカーティみたいに単純じゃないから、いろいろ考えることがあるんだよ」
「あっそ。じゃ、考えるのはおまえにまかせたぜ。おいダイングラム。面倒だからおまえのことはダインでいいか?」
「うん。じゃあオレも、カーティとレンって呼んでもいい?」
「よーし、特別に許してやろう」
 カーティスが少年に向かって冗談を言って笑わせている。
 レンブラントとカーティスを最初に見たときは安心して泣き出してしまったダイングラムだけれど、けれどもうそんな素振りは一切見せず、カーティスと笑って話をしている。
 あれで互いに目を逸らしたいことを後回しにしているのだろう。
 それじゃあ問題はちっとも解決しないのだけれど、カーティスが言ったとおり、考えるのはレンブラントの仕事、なんだろう。
 ここにはスルヤはいないし、いつまでもスルヤばっかりに頼るわけにはいかない。
「仕方ないね。それじゃ明日にはウィンダリアに向けて出発ってことで。ダイングラム……えっと、ダイン、今日はしっかりおやすみ」
 声をかけるとレンブラントは立ち上がった。
 どこか行くのか、というカーティスに、べつに、と答える。
「君はダインについててあげなよ。子どもの面倒を見るのも年長者の役目だからね」
 わざとにやりと笑って言えば、子ども扱いすんな、とダイングラムがわめいた。
 付き合いの長いカーティスは、それでなにか感じ取ったらしいけど、口には出さなかった。
 レンブラントはふたりを残して宿を出た。


 レンブラントがひとりでやってきたのは、神殿だった。
 アンデルシアの神殿は初めてだったが、入り口をくぐると中の雰囲気は知ってるものと変わらなかった。
 正面に、小ぶりだがステンドグラスがはめ込まれている。
 そこには必ず同じ題材が描かれている。
 長い赤い髪の女神。
 うつむいていることも多いが、ここのステンドグラスでは、天を仰いで祈っているようだ。
 なにを、祈るというのだろう、黄昏の女神が。
「我が神殿に、ご用がおありですか、旅の方」
 長いことそのステンドグラスを見上げていると、年配の巫女が奥から現れた。
 明確にそう思って来たわけではなかったのだけれど、レンブラントは巫女に答えた。
「ええ、ぜひお聞かせいただけますか。黄昏の女神は、どうして闇に隠れるのでしたっけ」
 世界を見守る黄昏の女神が闇に隠れ、月の王が夜を支配するという。
 その神話が予言なら、世界がどうなるのか、教えてくれるのではないか。
 それとも黄昏の女神は、世界を見捨てて去るのだろうか。
 大切に思っている、ほんの一握りの人たちのこと以外、ほとんどどうでもいいと思っているレンブラントは、もしかして、黄昏の女神は自分と同じように思っているのかも、なんて、この数日のあいだ考えていたのだ。
 国とか、世界とか。
 そんなのは自分にはどうでもよくって。
 カーティスと、スルヤと……それから、シルフィ。
 大事な人たちさえ自分の近くで笑っていてくれたら、冗談を言い合ったり、叱ったりしてくれたら。
 そう思って。
 シルフィのことを考えたら神殿を思い出したのだ。
 シルフィが神殿に入ってから、ふと、言ったのだ。
 レンブラントが黄昏の女神と似ているのは、見た目だけじゃないかも、と。
「黄昏の女神は……」
 小さな神殿の巫女は、何度も繰り返してきたであろう神話を、レンブラントのために諳んじる。
 人が黄昏の女神そのものだと思ってしまう、憂いを浮かべた横顔で、レンブラントはそれを黙って聞いていた。
 ただずっと、聴いていた。