六章 青い月団と荒野の星
一番に困ったのは、水だった。
まさかウィンダリアがここまでひどいことになっているとは思わず、苦手な馬を苦労して走らせ、ようやく小さな小さな小川を見つけたときには、もう動けない、と思った。
「やべーな」
カーティスがひっくりかえって、言った。
その隣では馬ががぶがぶと水を飲んでいる。
「このままじゃ食いもんもない。夜は……冷えたりとかすんのか? この辺は雨は降るのかよ?」
カーティス空を見上げてぼそぼそしゃべる。
不安なのは同じでわかるけれど、その不安を増長するような言い方はやめてほしい。
ちょっぴりイラついたレンブラントが幼馴染みをぎろっと睨みつけた、そのとき。
「……レン! カーティ! あれ!」
ダイングラムが飛び上がるようにして叫んだ。
おかげでレンブラントはカーティスへの文句を引っ込めてしまったのだけれど。
「なんだあ?」
カーティスがのっそり起き上がる。
レンブラントはダイングラムの指差すほうへと目を向けて。
「……!」
気付いた。
すぐにわかった。
立ち上がろうとして、足がもつれた。
「なにやってんだよ、レン!」
「うるさいなあ! 僕は! 僕はね! 僕だって……!」
わけもなくわめいた。
カーティスが乱暴に腕を掴んで立ち上がらせてくれる。けれど上手く立てない。どうにも足が震えてしまっている。
「なにやってんだよ、おまえは」
呆れ声のカーティスは、そんなレンブラントをほっといて、その、荒野の向こうに手を振った。
「……スルヤー!」
そして、ばかでっかい声で、その名を呼んだ。
乾いた土を巻き上げながら、一頭の馬が真っ直ぐこちらに向かって走ってくる。それが幼馴染みの兄貴分であると、レンブラントとカーティスにはすぐにわかった。ほかの誰かだったらとても無理だったろうけれど。
スルヤならわかる。
スルヤならわかってくれる。
そう思った。
「レン! カーティ!」
目の前にやってきた馬を見上げて三人……ダイングラムも含めて三人はぽかんとした。
スルヤと一緒に馬に乗っていた彼女が、するりと身軽に飛び降りて、レンブラントとカーティスに両手を伸ばして飛びついてくるのを見ながら、なんだか驚くことが多いな、とレンブラントは思った。
でも。
だって。
まさかスルヤと一緒に、シルフィがいるなんて。
「みつけた!」
「……シルフィ?」
目を白黒させるカーティスに、シルフィがにこにこしている。会えて満足、みたいな顔をしている。
「……スルヤ、シルフィ……?」
レンブラントは幼馴染みを交互に見上げる。
スルヤは相変わらず格好良く馬から降りると、ぽん、とレンブラントの肩を軽くたたいた。
レンブラントは……まだ座り込んでいたのだ。こんなに安心して腰が拭けるほど、緊張していたつもりはないのだけれど。
「レン」
そんなレンブラントの隣に、ぺたんとシルフィが座ってくる。にこにこ、という彼女の表情は知っている。ごきげん、という顔だ。
「大丈夫?」
覗きこんでくるシルフィの顔。
むかしとは、もちろん違う。
大きくなって、かわいいシルフィはきれいな娘になったけれど。
子どものころと同じ、この表情。
大丈夫、と口にする言葉には、正真正銘他意はない。
レンブラントは彼女の存在にずっと救われてきた。
「うん、大丈夫。なんてことないよ、これくらい」
微笑んで答える。
そうすればシルフィも微笑んでくれる。
「それにしてもびっくりした。シルフィまで来るなんて」
「うん、だってスルヤが」
シルフィがスルヤを見上げるので、つられて見れば、スルヤはレンブラントたちが黒姫から預かった黒い馬に触れているところだった。レンブラントたちはここへたどり着くので疲れ切って、馬を放り出していたのだ。
けれどふたりの視線にうん? と振り返る。
レンブラントは急いで立ち上がった。
……立ち上がれた。
スルヤの隣で手伝いをしようとしているダイングラムにくらべ、カーティスは離れたところで眺めているだけだ。
気が抜けたのか、まるでいつもどおりの顔をしている。
……ほんとにもう!
レンブラントがスルヤの隣に立つと、馬がちらりと振り向いた気がした。びく、と身をすくめると、スルヤがぽんぽんと肩をたたいた。
「座ってろよ。疲れただろ」
「べつに疲れてなんかないよ。僕たちはスルヤたちと違って、一週間なにもしてないんだから」
「ああ……待たせて悪かったな。すぐに誰かをやれたらよかったんだけど」
スルヤが眉間に力を入れて、ちょっと遠い目をしたので、レンブラントは慌てて言った。
「だ、大丈夫だよ、スルヤ。僕たちは平気だったし。それにダインが来てくれたし」
「……うん。ダイングラム、ありがとうな。よく会えたな」
「うん! レンは目立つからすぐわかったよ!」
まったく悪気がないだろうダイングラムの発言に、レンブラントはちょっぴりむっとして、スルヤはそれを見てくすっと笑った。
「もう! まあいいけどね! たまには役に立ってくれないと! それよりスルヤ、スルヤこそここがよくわかったね」
「ああ、それはね。黒姫さまがふたりの……三人か、おまえたちの進路を教えてくださったんだ」
「黒姫さま? て、あの?」
そうだよ、と頷くスルヤに、アンダルシアとウィンダリアの国境で、レンブラントたちに馬を貸してくれたあの黒姫さまのことを伝えようとした。
けれどその前にスルヤが続けた。
「でも、実際に見つけたのは、ほとんどシルフィだけどね」
「シルフィ?」
出てきた名前にレンブラントが首を傾げる。ちらりと振り返れば、シルフィはカーティスの隣にいて、おしゃべりしている。
「そう。あの娘は目がいいな。俺には全然見えなかったけど、ふたりの馬が走っているのが見える、ていうんだ」
「ええ? そんな前から見えてたの?」
「だって」
ぴょこ、と、いきなりシルフィがふたりの間に首を突っ込んできた。
カーティスも後ろにくっついて立っている。
「だって、なに?」
レンブラントが見下ろすと、大好きな幼馴染みの少女は、にこっと笑って告げた。
「だって、レンとカーティ、馬に乗るのすっごく下手なんだもん」
可愛い笑顔でさらりと真実を。
「……ぷっ」
吹き出したのは、もちろんスルヤだ。
「シルフィ! スルヤ!」
それが事実とわかっていても、いやわかっているからこそ、レンブラントとカーティスは、顔を赤くして幼馴染みの名を呼んだ。
大好きな名を、声に出して呼べることが、なんだかすごく嬉しかった。
国が滅びたことにショックを受けていないのは、シルフィもレンブラントと同じらしく、彼女はむしろ、スルヤやレンブラント、カーティスと一緒にいられることを純粋に喜んでいるみたいだった。もちろんレンブラントもその点は嬉しいのだが。
「大丈夫だよ、レン」
まるでレンブラントの心のうちを読んだかのようにスルヤが声をかけてきた。
いまここにはレンブラントとスルヤ、ふたりしかいない。シルフィとダイングラムは小川沿いにぷらぷら歩いていき、カーティスはなにもいわずにひとりでその後を追っていった。でも心配してるとかやさしいとか言ったら否定するに違いない。カーティスはそういうやつだ。レンブラントとは、ちがう。
「……スルヤは、いつも余裕だね」
相変わらずの穏やかな笑顔のスルヤに、少しばかりの嫉妬をにじませてレンブランドはこぼした。
「そうかな? 余裕なんてないよ」
「ウソ」
「嘘じゃないよ。ただ……わかってるんだよ」
「なにが?」
「俺じゃたいしてなにもできない、てこと」
穏やかな笑顔が、少しだけさみしそうに揺れた。
ずきりとした。
なにもできない。
そう思っているのはレンブラントも同じだ。
自分は、なにもできない。なんの力もない。
「……ごめん。俺が弱音吐いちゃ、駄目だな」
沈んだレンブラントのことをどう思ったのか、スルヤが苦笑いを浮かべた。だからレンブラントも応える。
「……そうだよ。スルヤはいつも余裕じゃなきゃ」
「それは……むずかしいな」
だれより近くにいて、きっとだれより理解している。
だからこそ、いままで作り上げてきた役割みたいなものを崩したくないと思うのは、子どもっぽいレンブラントのわがままなんだろうか。
「アジュールさまは」
スルヤは顔を上げて、切り替えたように切り出した。
「うん」
レンブラントも努めて自然に答える。
そう、ルイス王国の騎士であるように振る舞う。そうであろうとするのは、ルイスの騎士なら、アジュールさまについていけるから。きっと、そういうこと。
「主だった騎士や見習いたちを連れてここへ向かってこられている。黒姫さまの計画だと、今日か明日には合流できるはずだよ」
「そっか」
レンブラントはちょっぴりほっとした。
合流したからといって解決する問題もないけれど、物事が進むというのはいいことだ。……きっと。
「アジュールさまのところには、黒姫さまが……」
いるの? と訊ねようとしたとき、つながれていた黒い馬が二頭、急に嘶いた。この大きな四足の生き物を怖いと思っているレンブラントは、びくっと身をすくませる。
「な、なに?」
「なんだろう。様子がおかしい」
スルヤが腰の剣に手を重ね周囲をうかがう。
レンブラントも剣を確かめ、シルフィたちの姿を探す。
だいぶ離れたところで彼女が飛び跳ねているのが見えた。そばにカーティスが立っている。よく見えないけれど、ダイングラムはひとりで離れたりはしないだろう。
嘶いた馬たちは、けれどすぐに静かになった。その変化を不思議に思っていると、スルヤが剣から手を離し、背筋を伸ばした。
なに、と思って肩を並べ……レンブラントもそれを目にした。
馬が数頭、こちらに向かって走ってくる。
「あれ、アジュールさま?」
「そうだな。レン、カーティとダインを呼んで」
「あ、うん!」
レンブラントが川沿いで遊んでいる幼馴染みたちに目を向ける。叫んで……届くかな。ちょっと、遠い。
スルヤが剣を抜き、晴れた空へと掲げた。手首をひねって刃に陽の光を反射させる。きら、きら、と騎士の証が一瞬世界を貫く。アジュールさまならきっと見つけてくれるだろう。
それをちらりと横目で見ながら、レンブラントは親友の名を呼ぶために、大きく息を吸い込んだ。