一章 闇夜の逃走
初めは鼻が曲がるかと思った匂いも、すっかり慣れてしまったらしく、いまはまったく気にならない。
薄暗いのも、むしろ好都合だ。
視界の隅でなにかが動いたのでびくっと身がまえたが、杖を向けた先にはなにもいなかった。
ねずみか、こういう場所に巣食う生き物がいるのだろう。
息を吐いて、足を引きずり歩き出した。
魔法を発動させるための杖は、ちらりとも光をともさない。
握ってもなんの感覚もない。
ただの木の棒のようだ。
かといって捨てていくわけにもいかず、むしろ体を支えるという本来の用途とは異なる、けれどやはり杖としての使い方で役に立ってくれていた。
水の音が、暗闇の中、逸れた。
この水の音を頼りに歩いてきたのだが、どうやら今までと地形が変わったようだ。
杖を目の代わりにして前方を確認。
時間をかけているのかそうでないのか、それもよくわからないが、進める道は左右に分かれているようだ。
耳を澄ませて水の流れる方向を探る。
……左か。
光は一切ないが、水は必ず外に向かって流れ出ているはずなので、いまはこれを辿るしかない。
そして出口に辿り着いたら……自分はどうするのだろう。
もしも追手があったなら、自分がここへ逃げ込んだのが知られていたら。
出口には追手が待ち構えている、という可能性もある。
どうするべきか……いや、それは出口の光が見えてから考えてもいいか。
するり、とマントをひきずる感覚にはっとする。
はいつくばるような姿勢になっていることに気付いて、急いで起き上がる。
大切なもの……裏地の赤が特徴的な黒のマント。
黒ぶちに赤の国紋。
そして、杖。
魔法王国ファーンの魔法使いである証。
「……はっ」
杖を握りしめる手に力を込めて、自嘲の笑みを吐いた。
この大切なものを捨てれば、逃げ切れるのだろうか。
もし捨てさえすれば逃げられるとしたら……はたしてそれでも、捨てられるだろうか。
これを捨てて、自分に何が残るのか。
ざり、と足元の感覚が変化して、反射的に退がった。
杖で前方を突いてみる。
地面の固さは変わらない。
けれど足をそろりと踏み出すと、どうやら小石が増えているらしいことがわかる。
これはどういう意味だろう。
ゆっくり、進む。
暗くてなにも見えないことにかわりはない。
水の音は……そう思って前方に意識を向けたとき、急に、気付いた。
空気だ。
慣れてしまっていたこの空気が、急に臭い、と思った。
「外……っ」
追手がいるかも、とか、どうやって逃げるか、とか、ぐだぐだ考えていたことがすべて頭から飛んだ。
砂利を踏む音も気にせずに、外へと駆けだした。
ずっと暗闇にいたから、外へ出るときは眩しいだろうと思っていたが、そんなことはなかった。
そとは……夜だったのだ。
暗い……けれど、暗闇ではない。
光源などなくても、夜は世界のすべてを閉ざしはしない。
「……呆れたこと」
暗闇が、呟いた。
ぎょっとして、血が逆流するかと思うくらい驚いた。
人の気配など感じない。
杖を掲げて周囲をうかがうと、その人はわざわざといったふうに現れた。
闇のごとく黒い馬に乗った……女性?
黒っぽい服らしく、彼女の格好はまったく見てとれない。
ただその白い顔と、馬の手綱を握る手元がわずかにそれとわかるだけだ。
「本当にここから逃げてきたの」
彼女はこちらを見下ろし、まるで興味なさそうに言った。
「ファーンの魔法使いたちは、まだあなたを探していますわよ、ギュールズ・ルビオット」
ひどく投げやりに、その事実を告げた。
ああやっぱり、と思うと同時に、名を呼ばれたことに警戒する。
……ギュールズは杖を掲げた。
けれどファーンの魔法使いの証たる杖は少しも反応しない。
思った以上に、それは衝撃だった。
ほかの何を失くしても、魔法だけは自分の手から消えることなどないと思っていたのに。
「月は、ないわ」
黒い彼女が告げた。
「あなたの頭上に月はない」
その言葉が意味することを、ギュールズは正確に理解することは出来なかったが、なんだか切り捨てられたような、見捨てられたような、そんな印象を受けた。
がさごそと音がする。
「わたくしはあなたに興味がないのですけど、あなたに月を見る仲間もいるから、ここはとりあえず手をお貸ししますわ。生き残れるかどうかは、あなた次第ですわね」
どさっとなにかが投げられた。
なんだろう、とそろりと近寄る。
水か。
これは水袋だ。
「森の王国を目指しなさい。もっとも、あの国もいつまであるか、わからないけれど」
理解に一瞬かかって、それからぎょっとした。
森の王国とは、南の大国ウィンダリアのことではないのか。
あの国が危ないなんて聞いたことがないけれど。
「君は……何者だ?」
ギュールズがやっと絞り出した声は、けれど答える者なく闇に溶けた。
彼女はもうそこにはいなかった。
いつ、どうやって、立ち去ったのかわからなかった。
やたらと立派な黒い馬だけが、こちらを促すような目でそこに佇んでいた。