一章 闇夜の逃走

 まぶたの裏から届く光が眩しくて、ギュールズは寝返りをうった。
 顔をうずめた草の匂いがひどく懐かしくて、眠りがすうっと深くなり……かけて。
 がばっと、起き上がった。
 大雑把に打ちつけられた木板の隙間から、明るい光が差し込み、敷き草に下手くそな絵を描いている。
 外は、静かなようだ。
 ギュールズは起き上がって、マントについた草を払った。
 服に泥がついていると思って指でこすったら、それは血が固まったものだと気付いて、はっとした。
 自分は、怪我をしていたはずだ。
 ギュールズが眠っていたのは小さな小屋だった。
 もとは牛か馬といった家畜を飼うためのものだろうが、使われてはいないらしく、匂いもなく汚れてもいなかった。
 ……と、小屋にはもうひとり、夜を明かした者がいた。
 黒い馬だ。
 こうして見るとずいぶん立派な黒馬だ。
 ぽい、と他人に譲るような安価なものではない。
 鞍もしっかりしている。
 首のところにぶらさがった袋が重そうだな、と思って触れて、ぎょっとした。
 もしかして、と思ってそっと中を確かめる。
 金が入っていた。結構な金額だ。
 馬は訓練されているらしく、ギュールズが身体に触れても、耳としっぽをぱたりぱたりと動かすほかはじっとしていた。
 が、急に鼻息を荒げた。
 びくっとして顔を上げたが馬は暴れるでもなく、じっとギュールズを見返している。
 なんだか、なにか注意を向けるために人が咳払いするのに似ていた。
 まさか、と思って目を瞠ると同時に、ギュールズはその気配を感じ取り、振り返る。
 目の前で、ちょっと傾いだ扉が、ごとり、と動いた。
 ……眩しかった。
 目を細めた光の中で。
「……ギュー?」
 人の形をした輪郭が、その名を呼んだ。
 なつかしい、と思った。
 ギュールズがほんの小さな子どもだったとき、近所の遊び友だちが呼んでいた呼び方だった。
 大人たちも、魔法使いになるために学んだ学舎での友人も、王宮の人々も、ギュールズに愛称などつけはしなかった。
 ……と、いうことは?
「だれ、だ?」
 逆光の中に佇む人影に問いかける。
 その細っこい姿と、さっきの声で、女の子というのはすぐに気付いたが。
「失礼しました。ギュー……ルズ、さま」
 少したどたどしく紡ぐ言葉使いは、無学ではなく、どこかで教育を受けたあとが感じ取れて、ギュールズは軽く混乱した。
「……だれだ?」
 幼友だちに、自分以外で学舎に行ったような子どもは、いなかったはずだ。
 彼女は小屋に入ると扉を閉めた。
 眩しい光源が断たれ、彼女の姿がやっと目に映った。
 ボロを身にまとい、あまり長くはない黒い髪を後ろにひとまとめにしているようだ。
 そして……顔の半分で、肌の色が違った。
 はっとした。
 思いだした。
「君……ニーナ?」
 ギュールズは記憶力には自信があると思っていたが、十年も顔を見ず、実は思いだすこともなかったむかしの友だちの名が、さらりと口をついたのには、自分でも少しばかり驚いた。
「はい。そうです」
 縮こまっているかつての同級生に、ギュールズはどうすればいいのか迷った。
「あの、ニーナ」
 なにから説明すればいいんだろう、焦るということ自体めったにないギュールズが、慣れない気持ちを持て余して視線を彷徨わせる。
 と。
「……すべて、存じ上げております」
 彼女は静かに口を開いた。
「え?」
「わたくしは、あなたさまのお世話をするように、申しつかりました。どこまでもお供いたします」
「は?」
 ギュールズは目を丸くした。
 どういうことだ。
 彼女は何を知って誰の意志でここにいるのか。
「あの……」
 おそるおそる目を上げたニーナと、目が合う。
 彼女の右半分の顔を覆う痣は、生まれつきだと言っていたはずだ。
 どうしても目につくので、誰もが一度はまじまじと彼女の顔を見るものだ。
「服、着替えませんか」
「え?」
「その服では目立ちます」
 彼女の視線がギュールズの胸のあたりに注がれる。
 ギュールズも思わず自らの格好を見下ろした。
 深紅の法衣……ファーンの魔法使いの証。
「ああ……そうだね」
「こんなものしかありませんが、このほうが目立たぬかと思いまして」
 ニーナがおそるおそる差しだしたのは、麻布一枚で作られた質素な服だった。
「ああ、ありがとう。えっと……」
 受け取ろうとすると、ニーナはひょいと服を脇の木枠へとひっかけた。
「お手伝いいたします」
「えっ?」
「身体を拭きますので、どうぞその……ご衣裳を脱いでいただけますか?」
 ギュールズはびっくりした。
 確かに自分は宮殿に勤める魔法使いの中でも、ちょっと上位ではあったけれど、召使いに着替えを手伝わせるような、どこかの国の王族や貴族のような生活をしていたわけではない。
 ギュールズがためらっていると、けれどニーナなにか勘違いしたらしく、ギュールズのほうに手を伸ばしかけた。
「わっ! ちょっと待った!」
 その意味に気付いてギュールズが飛び退くと、体中に痛みが走った。
「……っ!」
 思わず顔をしかめると、ニーナが寄りそうようにして覗きこんできた。
「あまり急に動かれると、お傷に障ります。消毒もしますから」
「あ……ああ」
 思い出すと、痛みもぶり返してきた気分だ。
 そうだ、自分は全身に切り傷があるはずだ。
 風の魔法で受けた傷は、すぐには治らないだろう。
 促されるままマントと法衣を脱いでいく。
 現れた肌には、目にするのは初めてだが予想通り、無数の裂け目が走っていた。
「おいたわしい……」
 ニーナは最初に一言そうもらしたが、そのあとはずっと無言で手を動かした。
 水と薬草水で交互に拭き、汚れを取ったあと傷口に練り薬を塗っている。
 水にせよ薬にせよ、触れるとぴりりと痛いのだが、ギュールズはもちろんなにも言わなかった。