一章 闇夜の逃走

「ギュールズさま」
 呼びかけてくる声は慣れないような、懐かしいような。
「ギュールズさま、起きてください」
 手が肩に触れ揺さぶられると。
「……痛っ」
 腕に突き刺すような痛みが走り、ギュールズは思わず呻いた。
「も、申し訳ありません……!」
 慌てて離れていく手。それを追いかけるようにギュールズは目を開けた。
 そこにいた彼女には、オレンジ色の光が斜めに縞模様が落とされていた。
「ああ……大丈夫。驚かせてすまないね」
 ギュールズは笑みを浮かべて見せたつもりだけれど、こちらを見返すニーナの顔はゆるまなかった。
「ごめん、俺、だいぶ寝ていた?」
「そう……ですね。わたくしもずっとはここにいなかったのですが、途中で起きたりはしなかったのですか?」
 ニーナがちらりと向けた視線を追うと、そこには水袋とパンとチーズがおいてあった。
「もしかして、あれは俺の昼食?」
「……はい」
「けど、外はもう夕暮だね」
「そうです」
「朝から夕暮れ時まで寝てたってこと?」
「そうなりますね」
 ギュールズは息を吐いた。苦笑だった。
「お疲れだったんです、身体も心も……」
 ニーナが気配りを見せたが、ギュールズはいいよ、と笑った。
「まあ、そうなのは否定しないけれど、ちょっと気を抜きすぎだよね」
 よいしょ、と座り直す。
 今朝ほどは傷も痛くない。薬草が効いたのだろう。
 置きっぱなしで硬くなったパンに手を伸ばし、食べていい? とニーナに聞いた。
 はいと頷くのを待ってからパンを口に運んだのだが、咀嚼していると、ずいぶんと空腹であることに気付いた。
 決して美味しいパンではないはずなのに、あっという間に平らげてしまった。
 パンかすまで舐めとって、ふと顔を上げると、ニーナと目があった。
 まん丸に見開かれた彼女の双眸は、けれど一瞬くすっと微笑んだ。
「……ごめん。意外とおなかぺこぺこだったみたいだ、俺」
「みたいですね」
 少し穏やかになったニーナの表情に、嬉しいやら恥ずかしいやらで頭をかく。
 ふいっと顔をそむけたギュールズは……それに気付いた。
「え?」
「はい?」
 ニーナがすぐに振り返る。
 そこには黒馬が静かに佇んでいたのだが、その脇に、荷物が置いてあったのだ。それは、旅支度だろう。
「ニーナ、これ」
「はい。用意しました。準備できたのはこれだけですが、これ以上はここでは無理です」
 そしてニーナは彼女の手元にあった大振りの袋に手を添えた。
「ギュールズさま、これはどうされます?」
「うん? それは?」
「あの……ギュールズさまのマントと」
 皆まで聞かずともわかって、ギュールズはびくっと身体をすくませた。
 ずきっと傷が熱を持つ。
「法衣、だね」
「ほうい……はい、そうです。処分されますか? 見つからないようにするには、燃やすのが一番良いかと……」
「駄目だ!」
 ギュールズは耐えられず、大きな声で遮った。
 手を伸ばしてその袋を奪うように引き寄せる。
 ニーナはびっくりした顔で口をつぐみ、小さくなる。
「申し訳ございません」
「駄目だ……これは、手放せない……」
「大変失礼しました。お許しください」
 額を下げてニーナが謝る。
 ギュールズはぎゅっと袋を握ったまま、彼女の床につきそうな黒髪を見下ろした。
「これは、大事なものなんだ」
「はい」
「これだけは手放さない」
「はい、もう二度と言いません」
「これだけは……これだけは……」
 ギュールズは何度も何度も口にした。
 深紅の法衣に憧れ、一生懸命勉強し、法衣と国紋と杖を受け取ったあのときの、言葉にしようのない気持ちを、ギュールズは忘れられない。
 これだけは、捨てられない。
 全身の傷から、血が流れ出しそうなほど痛かった。
「い……っ」
 法衣の入った袋を抱き抱えて、痛みにうずくまる。
「ギュールズさま……っ」
 頭を下げていたニーナが手を伸ばして支えようとするが、起こすときに触れたら痛がったのを思い出したのか、手をとめた。
「ギュールズさま? 痛みますか? まだ……動くのは無理でしょうか」
 寄りそうように、でも決して触れないところで気遣ってくる。
 痛みは……確かにある。
 けれど、それを意識の外へ追い出す術は持ち合わせている。
 ギュールズはファーンの魔法使いだ。
 生半可なことでは務まらない。
「……ニーナ」
「はい」
「君はどこまで知っているの?」
 話しながら呼吸を整える。
 大気を読むのが上手い魔法使いが近くにいたら、いまの自分はすぐにすべて読まれてしまう。
「……すべて、存じ上げています」
 確か、はじめに会った時も、そう言っていた。
 けれど、すべてとはなんだ? ギュールズの知らないことも、すべて、か?
「ニーナ」
「はい」
「俺を探している追っ手はいるの」
「います」
 ギュールズは少し、頭を上げた。
 彼女の膝が目の前にあった。
「近くに?」
「村にはやってきました。あなたさまの生まれ故郷と知って探しに来たようです。あなたの名を言いふらして、村には戻ってこれないようにしたのだと思います」
「俺は……すでに反逆罪の罪人ってわけだ」
「そういうことに、なっています」
 ニーナは冷静に喋っているように見えるが、言葉の端が震えてた。
「俺のせいで、君は怖い思いをした?」
「いいえ」
 やたらとはっきりと答えが返ってくる。
 ギュールズはもう少し頭を上げた。
 胸の前で組まれた彼女の手が見えた。
「俺はここから逃げてどこへ行くんだろう」
「ウィンダリアを目指すのがよいかと思いますが、お怪我がひどければ、ひとまずアンデルシアに身を寄せるのも良いかもしれません」
 彼女は……どうして自分をかばうのだ。
 幼友だちだから、では絶対になさそうだ。
 誰の、どこの機関の意志が働いているのだろう。
 考えられる候補は多くはないはずだが、思い当たるものはひとつもない。
「じゃ、もうひとつ」
 ギュールズは頭を上げた。
 もう呼吸は乱れてなどいない。ギュールズ・ルビオットは、一流の魔法使いなのだ。
「はい」
 顔の右半分に大きな痣がある娘が頷いた。
 その瞳は、黒。
「月は、出ている?」
 魔力の源の力。
 夜空に浮かぶそれは、薄い赤色をしている。
 ファーンの基調色は、黒と赤。夜と月を表している。
「いいえ」
 ニーナはためらわず答えた。
 当然のように知っていることを答えたかに見えた。
 月の運行は魔法使いにとっては重要だが、それ以外の人間には、言ってしまえばどうでもいいことのはずだ。
 豊かでもない村の娘が、月がきれいだったというのならまだしも、今宵は月がないということを、問われてすぐに答えられるのは、少し奇妙だ。
 彼女は、何を知っているのか。すべてとは?
「月はないんだね」
「はい」
「闇夜、なのか」
「はい」
 何度も確認する。
 月のない夜……だから彼女はギュールズを起こしたのか。
「それじゃ、出発しようか」
 ギュールズは顔を上げた。
 夕暮れのオレンジ色はとうに消え去り、隙間からの光は夜の闇へと取って替わろうとしていた。
 だから、時間なのだ。
 魔法使いたちが魔法を使えない夜。
 ギュールズは、逃げなければならない。
「はい」
 ほんの少しなにか言いかけたニーナだったが、結局なにも言わずに頷いた。
 ギュールズも、一瞬考えてしまいそうになった思考に急いで蓋をして、ふたりは黙って立ち上がった。