一章 闇夜の逃走

 黒い娘が残して言った黒馬はとても立派な体躯をしており、ギュールズとニーナ、ふたりを乗せても、夜の闇の中を翔ぶように駆けた。
 通常、馬は闇をおそれるもので、夜に迷いなく走らせることができるというのは、訓練されている証拠だ。
 とはいえ、馬は馬だ。
 人のためではなく、馬のために足をとめた休憩時、ニーナはその都度ギュールズを気遣った。
「ギュールズさま、大丈夫ですか。傷は痛みませんか」
「ああ……まあ、痛いけど。そうも言ってられないだろう。大丈夫、魔法使いっていうのは、意外と耐性があるんだよ。それより、君のほうこそ大丈夫か。馬なんて乗ったこと……」
 ないだろう、と言いかけたが、ニーナは首を振って遮った。
「わたくしは平気です。ギュールズさまについて参ります」
 馬に乗ったことがない、なんてことはないことくらい、とっくに気付いていた。
 本来ならギュールズが馬上から彼女を引き上げてやるべきなのだろうが、差して重くもない荷物を持っただけで傷がびくびくと痛みの悲鳴を上げる始末で、さてどうしようと内心焦っていたところ、荷を手際よく馬にくくりつけたニーナは、ギュールズに確認したうえで、ひらりと馬の背に跨ってしまった。
 ギュールズはその後ろに、苦労してよじ登った。
 彼女を後ろから腕で挟むようにして手綱をとったが、彼女の馬の動きに合わせる呼吸のようなものは、村娘が習得している技術ではないものだ。一度どこかで習ったもののように思われる。
 彼女は……貧しい村で時に一緒に遊び、時に顔の痣のことでからかわれ、時に笑い時に泣いていたあのニーナではなくなっていた。
 特別親しかったわけではない。
 でもいくら出世したからといって、敬語で話され召使のように振る舞われるような距離ではなかったと思う。
 でも反対に、いくら昔の……ある意味本当のギュールズを知っているからといって、村を捨てて一緒に逃げるような仲でもないのだ。
 彼女は、なにを知っているのか。すべてとは?
「ギュールズさま、大丈夫ですか?」
「ああ……ここは、どのあたりなんだろう。君、わかる?」
「はい。道のことは心配いりません」
「俺たちはいま、どこにむかっているの」
「できれば明るくなる頃にはファーン領を抜けて、アンデルシアに入れたら、と思っています」
「そうか……アンデルシアに入る道といえば、たくさんあるけど、君が目指している道はあるの」
「二百二十番通りが安全だと思います」
 訊けばすらすらと答えが返ってくる。
 この逃走経路はとっくに彼女の中では決定していたらしい。
 彼女が選んだのか? それとも誰かが?
 ギュールズは首を振った。
「ニーナ、そろそろ行こうか」
「はい」
 ふたりはそうして闇の中を疾走していった。
 
 ニーナがひとりで行く、と言ったのは、出発した日没よりも、夜明けのほうがずっと近くなった時刻だった。
「えっと……どうして」
「なにかが近くにいます」
 ニーナが呟くので、え、と思ってギュールズは周囲に気を配ったが、当然なにも感じ取れなかった。
「追っ手?」
「わかりません。とりあえず確かめに行ってきますので、ギュールズさまはここにいてください。あ、でも」
 ギュールズには口を挟ませず、ニーナは一気に言った。
「危険と思われたらわたくしのことはお気になさらず逃げてください」
 そして、ニーナは軽く一礼すると、闇の中へと走っていった。
 あたりは、静かだった。
 隠すつもりがないのか、あるいは身についていて隠しようがないのか、ニーナの動きには見覚えがあった。
 ファーンの魔法使いが小間使いのように使っていた斥候だ。
 最近は魔法使い同士の派閥闘争のほうが活発だったが、そもそもファーンという国は、世界中に斥候を放っており、その情勢を知り尽くしているものなのだ。
 魔法使いをこんなに公に抱え込んでいる国はほかに例がない。
 なんでも寛容に受け入れるアンデルシアと、表面的には嫌っているくせに、内側には結構な人数を育てているらしいサグーン、それくらいだ。
 三大国のひとつ、南のウィンダリアは、魔法使いが国内に入ることさえ許可していない。
 あたりは真っ暗で灯りはわずかもなかった。
 ニーナの言葉を信じるなら、ここはファーンからアンデルシアへ向かう街道に近いはずだ。
 けれど信じる根拠はなにもない。
 空には月はおろか、星さえも見えない。
 世の中には、生まれつき星を詠むことのできる人間がいるという。
 誰かに教わるのではなく、夜空の星を見て、その色や配置なんかに意味を読みとるのだそうだ。
 彼らのことを星詠み、と呼ぶのはどこも同じなのかファーンだけなのかはわからないけれど、星詠みは魔法使いとは異なり、世界中に散らばっている。
 体系だった組織がないため、何人くらい存在するものなのかさえわからないと言われている。
 ギュールズは、夜空を見上げた。
 星詠みならば、あるいはこの空に、星を見ることが出来るのだろうか。
 ギュールズの未来を読み取ることが可能なのだろうか。
 ギュールズは杖を引き寄せた。
 握りしめ、集中してみるが、杖はぼんやりとさえ光らない。
 まるでこの夜空のように、なにも自分に伝えて来ない……。
 まさか、こんな日が来るなんて、と考えかけて、慌てて自らの考えを否定した。
 いや、大丈夫だ。
 きっと、大丈夫。
 今夜は月が出ていない。
 逃げるには絶好のチャンスであって、魔法が使えないことも悪いことばかりではないはずだ。
 大丈夫。
 状況は、たぶん最悪に比べたらずいぶんとマシなはずだ。
 闇夜は追手の魔法の威力も弱まらせている。
 思いのほか素晴らしい黒馬を借り受けることができた。
 そして……ニーナ。
 彼女は。
 なぜ、自分の味方をしてくれるのだろう。
 考えたくはなかった。
 この闇夜をあてもなくひとりで逃げるなど、考えたくなかった。