一章 闇夜の逃走
ギュールズの不安など星に定められた運命にはなんら影響しないらしく、ニーナはしばらくして戻ってきて、ふたりは再び馬上の人となり、彼女の予定通り夜明けにはアンデルシアとの国境に到着していた。
早朝だというのにそこは人でにぎわっていた。
多くは商人のようだが、中にはアンデルシア風とは異なる服装の者もいた。
ギュールズとニーナは、その中にあって目立つことはなかった。
それがギュールズには不思議だったのだが、おかしいなと思ったのははじめの少しの間だけで、あとはひたすら疲労と眠気と闘っていた。
人々は……多くはここを素通りしていくらしく、旅籠としては小さなところだった。
四、五軒の建物が扉を開け、温かくて香ばしい香りをふりまき客足を引き留めようとしている。
ギュールズはぼうっとする頭で周囲を見回し、どうするべきか考えた。
「ニーナ、どうする? 少し休む?」
一晩中駆け抜けたのは彼女も同じはずだが、ニーナはいえ、と短く答えた。
「ギュールズさま、お疲れのところ申し訳ありませんが、もう少し辛抱いただけますか」
「え?」
ニーナはきっぱりと言うと、小さくても活気のあるこの国境の宿場町を、馬から降りることもなく通り過ぎてしまった。
ニーナが、馬の足を止めさせたのはしばらく進んだところだった。
宿場町というには活気がなく、しかし辺境の村というには……違和感があった。
なにがおかしいのか、でもギュールズにはその理由がわからない。
体力的に、限界だった。
ニーナは先に馬から降りると、手綱を引いて一軒の戸を叩いた。
とーん、とんとん、という、少しかわった叩き方だった。
するとすぐに中から男が出てきた。
眠気でぼんやりしていたギュールズは、けれどはっと目が覚めた。
現れた男は、片足がなかったのだ。
失った脚の代わりに細い鉄の棒のようなものをつけている。
男がぎょろりとこちらを見上げてきたので、ギュールズははっと我に返り、馬からすべるように降りた。
途端、全身の傷が疼いた。
「……馬はお願いできますか」
ニーナが男に言うと、彼はちらりと馬を見て、奇妙な顔をした。
「この馬は……ギュールズさまが、直接お受け取りになったので?」
ニーナが振り向いてたずねるので、ギュールズは頷いた。
ふたりがこの馬のなにを問題にしているのかがわからなかった。乗り手のわりに立派すぎるので、盗んだとでも思われているのだろうか。
「あ、ああ……。その、宮殿を出たところで」
ギュールズが口を開きかけると、男はなおざりに頷いて馬をひいていってしまった。
「ギュールズさま、こちらへ」
馬のほうを見送っていたギュールズがに、ニーナが声をかけた。振り返ると、男が出てきた扉に入ろうとしている。
彼女について中に入ると……驚いたことに、大勢の人がいた。
男性も女性もいる。が、誰一人として話をしているものがいなかった。その無音さを除けば、そう、ここは宿の食堂に似ていた。実際食事をしている者もいる。
そして人々は……ほとんどの者が、ギュールズに注目していた。
一緒に入ったニーナには誰も目を向けない。
身体の内側が熱くなるような、あるいは寒くなるような、奇妙な感じだ。
この人たちは、ギュールズが誰なのか、何者なのか、わかって注目しているのか。それとも反対に見知らぬ余所者に対する視線なのか。
「ギュールズさま、お食事はどうされますか。お休みされる前に、召し上がります?」
「え?」
ニーナの申し出にギュールズが戸惑った顔をすると、厨房と思しきカウンターの女性が口を開いた。
「お休み前のお食事でしたら、野菜と鶏肉の温かいスープをお持ちします」
目をやると女性は軽く礼をした。
その動作は庶民のあいさつではなかった。
アンデルシア風の、貴族とか目上の者に対する、簡易ではあるが正式な礼だ。宮殿で見たことがある。
「あ、ああ、それをいただこう」
ギュールズが答えると、彼女は再び礼をした。
「ではギュールズさま、こちらへ。お部屋にご案内します」
「ああ」
頷いて先導するニーナに続いて歩き出すと、人々の視線もついてきた。注目されるのには慣れているつもりだったが、こんなに緊張する場面は久しぶりだと思った。
ニーナはそのまま人々の間をすり抜け、二階へと案内した。
そこは決して広くはないが、机と椅子、それに寝台がひとそろえある清潔な部屋だった。
「ニーナ、あの、ここは……」
「ここには絶対に追手は参りません。今日はどうぞ安心しておやすみください」
「ありがとう、でもニーナ」
さらに続けようとするとニーナが手で制した。
するとドアがノックされ、食事が運ばれてきた。さっきの厨房の女性が、言った通りのスープを置いていく。
彼女が退出してから、ニーナは息を吐くように、告げた。
「わたくしたちは、皆、ギュールズさまのお味方です。無事ファーン領を抜けられましたこと、お祝い申し上げます」
「な……っ!」
「ギュールズさまには本意ではなかったかもしれませんが、わたくしたちは歓迎申し上げます」
「なにを!」
ギュールズはニーナの言葉を遮った。
無表情に機械的に告げられる内容に、少し、恐怖を感じる。
聞いてはいけない、と思った。
「わたくしたちは」
けれどニーナはギュールズの感じる恐怖などわからない。わかるはずがない。
「あなたさまを王として、お迎えいたします」
「王、だって?」
幼友だちの言った単語は、ギュールズの想像を超えていた。