二章 碧の星詠み
魔法使いはひ弱だ、というイメージがあるが、ことファーンの魔法使いにその言葉は当てはまらない。
魔法を使う、というのは、思いのほか体力を使うのだ。
魔法効果が大きいものほど、術には時間を使うし、難しい術式を用いる。
いずれも非常に体力を使う。
数日がかりで行う術儀もあり、その間は文字通り飲まず食わずだし、当然眠る暇もない。
魔法王国の魔法使い、深紅の法衣を手に入れるのには、そういった覚悟も必要なのだ。
眠る前に軽くスープを胃に収め、戸惑う会話も多少あったけれど、静かで清潔なベッドで充分に睡眠を取ると、ギュールズはもう体力的にはだいぶ回復していた。
それは別段、驚異的ではない。
ファーンの魔法使いなら、これくらい普通だ。
「ギュールズさま」
ノックとともに、彼女の声がした。
すでにベッドから起き出していたギュールズは、穏やかに返事をした。
「はい、どうぞ」
応じるとすぐに、失礼しますと言ってニーナが入ってきた。
ギュールズは、窓から外を見下ろしていた。
ファーンの宮殿を出てから、夜に逃げて昼に眠っている。
そのことはべつに平気だが、目覚めると夕焼け、というのはあまり心地よくない。黄昏の女神は、こんな自分を見下ろしているのだろうか。
「ギュールズさま、お身体はいかがですか?」
「ああ、平気だよ」
まるで召使いかなにかのようにかしずくニーナに、ギュールズはそっけなく答えた。
嘘だった。
体力は回復するけれど、魔法で受けた傷はなかなか治らない。全身に受けた切り傷は、いまでも切り裂かれるように痛む。あまり動かないほうがいいのはわかっている。
「この町は、なに」
ギュールズは窓の外に目をやったまま、ぽつりと言った。
町が見下ろせたが、そこには人も馬も、子どももなにも、いなかった。
ただ建物が長い影を引っ張って佇んでいるだけ。
ギュールズが知っているのは城下町の喧騒だけだが、それでもやはり夕方というものはもっと人の往来があるものではないだろうか。
「この町に、名はありません」
ニーナは答えた。
「地図にも載っていません」
「違法なのか?」
「わたくしたちは、どの国の法にも縛られません。けれど……この町のことは、アンデルシア王はご存知です」
意外な発言に、ギュールズは振り返った。
ニーナは、黒っぽい衣装を身にまとっていた。
机の上にはスープとパンが置かれている。
「アンデルシア王?」
「はい。ここは、王の直轄地となっています」
面喰らった。
なんだそれは、と思ったが、詳しくたずねてもすべてを理解できるかは疑問だ。この光の王国と呼ばれるアンデルシアのことを、ギュールズはあまり知らない。
ギュールズは軽く首を振って、自ら話題を変えた。
「法衣」
部屋の壁にかけられていた、深紅の法衣に目を移した。
泥や血が汚していた法衣が、きれいに洗われていた。多少、血の跡が残っていたが、目を逸らした。
「ありがとう」
「はい。ですがギュールズさま」
「わかってるよ。人目には晒さない」
この法衣を誇りに思っているのは以前も今も変わらないのだが、国家反逆罪の濡れ衣を着せられた今では、とりあえずこれを着て歩く愚は犯すべきではない。それくらいはわかっている。そして二度とこれを着る機会がないことも……いや、それは考えないでおこう。
「過去の栄光だとしても、後生大事に抱えていたいんだよ、俺は」
自虐的に言って、弱く微笑んだ。
ほかに、なにもないのだ。
自分はそれに、しがみついていたい。
息を吐いて、ギュールズは顔を上げた。
「それ、頂いてもいいのかな」
彼女が運んできた食事を指差してみた。いまはとりあえず彼女たちの好意に甘えて、体力を取り戻すのが先だ。でなければなにも行動できない。
スープは野菜が中心なのだが、染みわたるようにやさしい味がした。
ギュールズは中途半端な時間にベッドから起き上がった。
朝ではない。
満足に動けない怪我人なのだから寝ているのが悪いことではない、むしろそうすべきことなのだけれど、ギュールズはずっとベッドに横になっていた。
しっかり眠ってしっかり食べる。いまの自分にはそれが必要だとわかっていたけれど、この安全な閉じられた町にじっとしているのはひどく不安を掻き立てた。
本当は動くと切り傷が痛いのだけれど、なんでもない顔をして部屋の扉を押した。
建物の中は静かだった。
「ここはアンデルシア王の直轄地だと言っていたけれど、ファーンの犯罪者をかくまっては都合が悪いんじゃないのか」
「大丈夫です。ご心配なく」
「どうして。その理由を俺は聞かされてないんだが、教えてはもらえないのかな」
与えられた自室を出て、階下の食堂であたたかいミルクをいれてもらいながら、ギュールズはたずねた。
じっとしているのは嫌だから、出来れば部屋の外に出て、せめて階段の上り下りををしたいと申し出ると、あっさり頷かれた。
町の中なら歩いても問題ないという。
なので手始めにこの建物の中をうろうろしていたところ、この食堂にひとりでいたニーナに会ったのだ。
「いいえ」
彼女がさしだしたミルクは温かく、甘い香りをしていた。
「お伝えすることはできます。でも」
ニーナはギュールズの近くの椅子をひき、少し言葉をとめた。
「ただ、ギュールズさまが混乱なさってはと思いまして、少しずつお伝えしようと思っています」
「混乱?」
「はい。先日、わたくしたちの王に、と申し上げたことを、ギュールズさまはどう思われましたか」
「それは……」
建物の中はひどく静かだった。たしか最初に訪れたときはたくさんの人がいたはずなのだが、あれ以降、ニーナ以外の人を誰一人見かけていない。
「王、と言われたからだよ。いきなりそう言われたら、誰でも驚くさ」
「ですが、ここにいた者は皆そう思っています」
「王、て、なんのたとえなんだ」
「たとえではありません。わたくしたちの王になっていただきたくてお迎えしたのです」
……絶句した。
やはり、よくわからない。
世界には王政の国家が多いが、どこにこんな濡れ衣とはいえ罪人となった、庶民出身の、まだ半人前の魔法使いの自分を……。
はた、とギュールズは思考を止めた。
まさか、と一瞬で否定するが、しまいきれないほどに膨らんだ迷いが、顔に出たらしい。
「……なんでしょう」
ニーナがいつも通りの声でたずねてくる。
ここまで良くしてくれた彼女を疑いたくはない。
けれど……どうすれば、いいのだろう。
「どうして君は……」
ギュールズはできるだけ遠まわしになるように言葉を探した。
「あのとき俺を迎えに来たんだ? その……ファーンに内通者がいるのか?」
おそるおそるたずねる。
あっさり肯定されたらどうしよう、と身構える。が、ニーナは顔色ひとつ変えずに首を振った。
「ギュールズさまは、星詠みをご存知ですか」
「え?」
「わたくしたちは星詠みを多く抱えています。彼らが言ったのです。あなたがあの日、ファーンの魔法使いではなくなる、と」
その……通りなのだが、ギュールズはその言葉に、真っ白になってしまった。