二章 碧の星詠み

 まさか宮殿での一幕が彼女とその仲間たちの仕業じゃないかと疑ったギュールズを、責められはしないだろう。
 突然所属しているところから、身に覚えのない罪を問われ、言い分は一切聞いてもらえず、そのうえ命さえも危ういところまで追いつめられ、文字通り命からがら逃げ出したところで、自分を待っていた人たち。
 星詠みだって? 彼らには、そんなことまでわかるのか?
 ギュールズはひとり、人気のまったくない町の中を歩いていた。
 人が生活している匂いがまったくない町で、唯一憶えのある感覚にはっとした。一般的な町や村なら、家畜の匂いと思われるだろうけれど、ここでそれはないだろう。だからこれは……馬の匂いだ。
 匂いと、そしてわずかな気配を追いかけてギュールズはひとつの建物に辿り着いた。厩舎、という感じではなかったが、覗くと裏口があるようだ。そっと扉を押してみれば、中は意外と普通の厩舎だった。
 そして見覚えのある黒い馬。
 入って行くと、まるで馬がギュールズに気付いて挨拶するかのように、頭を揺らした。ギュールズが馬に近づこうと一歩踏み出したところで。
「……っ!」
 それまで感じなかった人の気配が急にそこへ現われて、ギュールズは思わず身構えた。
 目を向ければなんのことはない、ここへ来た時に馬の世話を頼んだ男だった。片足がなくて、鉄の棒をかわりに装着している。それが目につくので一瞬ぎょっとしてしまうのだが、よく見ればその人は、ファーン人らしい風貌をしていた。
「……ああ、あなたですか。馬の世話をありがとうございます」
 警戒を緩めて話しかけると、男はちらりと馬に目をやってから頷いた。
「あの馬は……」
 そして、口を開いた。
 なんとなく、彼が話をしてくれるとは思わなかったので、少し、驚いた。
「孤蒼の馬ですね。あなたさまは孤蒼の娘に会われたのですか」
 突き放すような態度だったのに、ギュールズに向き合うときは敬語で話された。じぶんよりずっと年上の人に、深紅の法衣をまとっているわけでもない自分が、なぜ。聞きたいことはたくさんある。けれど知りたいような知らないほうが良いような。
「……すまないが、あなたのいう孤蒼、というのがなんなのか、わからない。夜だったのでよく見えなかったけれど、女性、だったよ。俺と同じくらいの年齢だったかもしれない。憶えているのはそのくらいだ」
 夜だったし、あのときの自分はいろんなことで一杯だったのだ。
「それで、孤蒼というのは? 人の名? いや……なにか組織か、団体の名、かな?」
 ここまでの話の流れを鑑みて推測すると、男は頷いた。ニーナの言うとおり、隠すつもりはないらしい。
「我々の仲間ですが、派閥と思っていただくとわかりやすいでしょうね」
「派閥? 仲間? ということは、あなたやニーナたちとは、同じ組織だけれど別の派閥ということですか」
「ええ」
「あなたたちはどういう組織なのですか」
 ギュールズはたずねた。
 そう言えば一番肝心なことを自分はまだ知らない。
 彼らは、ニーナは、何者なのか。
 男は少し考える顔をしたが、すぐに口を開いた。
「一言でお答えするのは難しいですね」
 それはつまり、単純な組織ではないということだ。
「では少し方向を変えて訊ねたい。この馬と、その持ち主を孤蒼と呼びましたね」
「ええ」
「彼女たちは敵ですか」
「いいえ」
 少しも迷わずに返事が返される。
 それは、多分、ギュールズにもわかっていた。だってあのときの彼女は言ったのだ。ギュールズに興味はないけれど、なにか、べつの誰かのために自分に手を貸す、というようなことを。
「それではあなたたちのことはなんと呼ばれているのですか」
 ギュールズは再び話題をずらした。
「というのは?」
 男はなにを答えるべきか、少し迷って見せた。
 それはどういう意味だろう。
「派閥の名称のようなものが、あなた方にもあるのでしょう?」
「ああ、それなら、暁闇と呼ばれています」
「ぎょう、あん?」
「夜でもなく朝でもない暁。光の気配をどこかに感じさせる、でも世界はまだ眠っている、そんな時間を表した言葉です」
 男は答えてから、ふっと視線を滑らせた。
「ギュールズさま、外であなたを呼んでいます」
「えっ?」
 促されて、というかまるで追い出されて外に出ると、待っていたかのようにニーナが立っていた。
「こちらにおいででしたか」
「ああ、馬の様子を見に」
「あの馬は……連れて行かないといけないでしょうね」
 一緒に歩きながら彼女が言った。
「連れて、行く?」
「はい。ギュールズさま、移動されますか、そろそろ」
 正直、身体の傷はまだ痛むのだが、馬での旅が無理なほどではないだろう。
「今ならアンデルシアは、祝祭のために他国の人間が多く行き来しているので、移動するのに適していると思います」
「そうだろうね」
 ギュールズは頷いた。それはわかる。ニーナがいろいろ気をまわしてくれているのも、わかる。
 アンデルシアの祝祭は、次の満月のはずだ。
 その頃までには、少なくともファーンからもっと離れたほうがいい。
「ウィンダリアか」
 空を見上げてぽつりと呟いた。
 見上げればどこかに薄い月が見えるはずだけれど、ギュールズには見つけられなかった。
「どうしてウィンダリアに行くんだ?」
 ニーナも、馬を貸してくれた彼女も、ウィンダリアに行けと言う。
 でもあの国は、魔法使いを国内に入れていない。……だからか?
「それは、わたくしたちの仲間が、かの地にいるからです」
 予想とは異なる理由が、あっさりと返ってきた。
「仲間……それは、多いのか」
 派閥とか、王とか。彼女たちの話は、まるで自分の知らない遠い国のことのようだ。この世界に、ファーンの知らない国などないはずなのに。
「多い、のでしょうか。わたくしにはわかりませんが、少なくはないと思います」
 ニーナはかみしめるように言った。
 宿に入りながらギュールズはそっと振り返った。
 あの、馬の世話をしてくれている片足の男性の、名を聞かなかったな、と思った。