二章 碧の星詠み
ギュールズは正直、歩いて旅をするのはちょっと大変だ、と思っていたものの、その立派な馬をこれ以上借りているのもどうか、と思ったのだ。
しかし、この馬はここにいても困る、と言われてしまい、ギュールズはありがたくも再びこの立派な黒馬を借りることにした。
馬上で揺られるのも決して楽ではなかったが、自分で歩くのに比べればずいぶんマシだった。怪我はしているが、馬に乗るための筋肉にはなんの問題もない。
旅の連れは、ニーナひとりだ。
彼女がいてくれるのは非常にありがたいが、申し訳もなく、また……疑問でもあった。
「これから、どこへ向かうんだ」
「ウィンダリア側に向かうには、アンデルシアの首都の南側を通るのがいいと思います」
「南側か。この街道をずっと行くのか」
「はい。アンデルシアの街道は首都を中心に蜘蛛の巣のように組まれていますので、街道を通って行けないところはありません」
ニーナがはっきりと言った。
彼女は詳しいのだろうか。
ギュールズは文献でちらっと読んだ表面的なことしか知らない。彼女がいないと、ひとりでは逃げられもしなかったのだろうか。そう思うと少しばかり……落ち込む。
「ニーナは」
馬の上からギュールズはその名を呟いた。
馬の脇を歩いてきた彼女が、ちらっと顔を上げる。
「どこまで一緒に来てくれるんだ」
「どこまでもお供します」
即座に返事が返ってくる。
一瞬もためらわないその態度を、素直に信じて喜べない自分はひねくれているのだろうか。
「……そうか。ありがとう。よろしく頼む」
でも表面的にはそれを受け入れたような顔をする。
それ以外のことを言われるのが、いまのギュールズは怖かったのだ。
街道はまず、首都のほうへと向かっていた。
光の王国アンデルシアの首都アウグストーのほうへと向かっていた。光の王国アンデルシアの首都は、光都とも呼ばれる。
光都はいま、祝祭で賑わっていた。
国王の従姉であり、近い将来王妃になるであろう、第一王女の誕生祭なのだ。
国王の妹が第二王女で、従姉を第一王女と称するのに、ギュールズとしては違和感があるのだか、王家の決まり事なんていうのは、まあ、国それぞれなんだろう。
血の近い者同士の婚姻も王族にはよくみられることだが、それも良いとは言い難い。
けれどアンデルシアの現王については、妃候補の姫は隣国に何人もいたし、それよりも第一王女の美貌は有名で、すぐにでもどこの国の王妃にでもなれるともっぱら噂だった。いまでも彼女に見合いの話を持ちかける貴族は後を絶たないとか。
それでも王女は、従弟との婚姻を望んだのだろうか。
美しい姫なんて格好の外交の道具だろうに、けれど世界最大の王国は、その世界一の価値の姫を他国へ嫁がせる必要がなかったのだ。
あるいは。
知ってはいるけれど遠い異国にギュールズは想いを馳せる。
その姫が、アンデルシアから出たくなかったのかもしれない、と。
国の関係なんて、どんなに細心の注意を払って操作しても、思わぬ小さなきっかけで、あっという間に変わっていく。それなら自分のしたいことを、愛着ある場所でまっとうしたいと、思ったのではないだろうか。
ギュールズは少し、理解出来るかもしれない、と思った。自分はいつまでも、いまでもずっと、ファーンの深紅の法衣をまとう、魔法使いでいたいのだ。
馬を引いて先導していたニーナが、街道の岐路で足を止めた。はっとしてギュールズは急いで周囲に視線を巡らす。
「ギュールズさま、このまままっすぐ行くと首都ですが、ここで道を逸れようと思います。よろしいでしょうか」
「あ、ああ、わかった」
この辺りの地理なんてまったくわかっていないギュールズだから、ニーナが確認することはなにもないのに、こうして声をかけてくれる。それがさながら主人と忠実な従者のようだと思って、ギュールズは顔をしかめた。
「ギュールズさま、どうされました? 傷が痛みますか?」
わずかな変化を読み取って、ニーナが見上げてくる。
「あ、いや、そうじゃないよ。ちょっとぼーっとしてて悪かったなと思ったんだ」
そう、ぼーっとしていた。馬はニーナが引いてくれる。少し気を逸らしていても平気なくらいには乗り慣れている。だからつい、物見遊山のようにふらーっとしていたのだ。
反省して、改めて周囲に目を向けた。国境から首都への道を縦というなら、いまは横に走る道を進んでいることになる。まっすぐどこまでも行けるが、まっすぐ行くだけでは首都へは辿り着けない。
このあたりは東にファーン、西にアンデルシアの首都があるので、いま進んでいる道は、南へと馬を向けていることになる。 空を見上げて太陽の位置を見る。……そして、ファーンの宮殿を出て初めて不便だと思うことがあった。
だいたいのことはわかるけれど、手元に資料ひとつないのは心許ない、ということに。
どうしていままで平気だったのだろう。気付いてしまうと急に居心地が悪くなってきた。
「……ギュールズさま?」
すぐに気付いてくれるニーナに、今度ばかりはすぐに本題を切り出してしまった。
「ニーナ、君、天文便覧かなにか、持ってないか」
「はい?」
……さすがのニーナも一瞬目を丸くして、それからすぐに困ったような顔になった。彼女の表情に、言うことが急すぎたな、と反省する。
「ごめん、ニーナ」
「申し訳ありません、ギュールズさま」
謝ろうとしたら、口を開いたのはふたり同時だった。
え、と思ったギュールズは、だから、次の言葉を言うタイミングを逃してしまった。
「いま、わたくしはそういったものを持っていません。必要ですか」
「いや、必要ってことはないけれど、ほら、俺はずっとそういうものを基準にして生きてきたからさ。ないと落ち着かないな、と思っただけだよ。急にへんなことを言って、ごめん」
「そう……ですね。ギュールズさまは魔法使いでいらっしゃいますものね。せめて暦表くらい持ってくればよかったですね。気が利かなくて申し訳ありません」
立ち止まって深々と頭を下げる。
周囲に人はたくさんいたが、ちらと視線を寄越す人はいるけれど、特別目立ってはいないようだ。きっと立派な馬に乗っている若主人と、その従者に見えているにちがいない。
彼女はギュールズの従者のつもりかもしれないが、ギュールズは彼女の主人のつもりはない。
でもこの場は、召し使いを叱責する若主人のふりをしたほうがいいのか、内心迷ってしまった。
「ギュールズさま、それではこの先に、仲間の星詠みがいますので、そこで調達しましょう。それでよろしいでしょうか」
「あ、ああ、ありがとう」
頷くとニーナは再び前を向いて歩き出した。
ギュールズは馬の背に揺られながら、ほっと胸を撫で下ろした。