二章 碧の星詠み

 本を運ぶのを手伝おうとしていたら、ニーナが戻ってきて即刻止められた。
「いけません、ギュールズさま。お怪我に障ります!」
「はあ? あんた怪我人? ならやっぱり止めとけって」
 ふたりにあしらわれて、ギュールズはなんだかやるせなくなった。これでは自分はただの役立たずみたいだ。
「無理することはないさ。もともとこれは俺の仕事で……お」
 セインが、ばさばさと集めていた本に目を止めた。
「ギュールズさま、これも」
 そう言って一冊の薄い本を差し出してくる。なんだ、と思って受け取ると、どうやら暦本らしいが、ファーンとは少し違うようだ。
「これは?」
「森の王国ウィンダリアで用いられている暦本。やる」
「え……っ」
「魔法使いのいない国の暦なんて、珍しいだろう」
 はっとした。
 世界には魔法使いを受け入れていない国がある。
 暦は普通、天体運行が基本になっていて、天体の観測は魔法使いが行うものだ。では魔法使いがいない国はどうするのだ? 急に興味引かれてギュールズは、暦本に目を落とした。のだが。
「はいはい、ギュールズさま。そこは邪魔だから、裏に出て読んで」
「わっ、悪かった」
 セインに追い立てられて慌てて本を閉じると、束ねた本を抱えて立ち上がったニーナがいつもの調子で、こっちです、と言った。
 ここにいても邪魔になるのか、と少し落ち込みながら、ニーナについて裏手にまわる。そこには一頭立ての馬車が繋がれていた。
「あまり遠くには行かないでくださいね」
 ニーナはそう言うと本を馬車の荷台に積み込んで、また店に戻っていった。
 ギュールズはもちろんどこかに行くつもりはなく、意外と立派な御者台に乗り込み、早速天文便覧を広げた。午前中に測った太陽の位置から、表を使って今は見えない月の位置を計算する。近い未来の魔法の力の流れを読み込んでいく。
 資料を膝に乗せ、ギュールズはしばらく集中してしまっていた。
「ギュールズさま、あんたはそこに居る? それとも後ろに乗る?」
 すぐ隣で声がして、ギュールズは驚いて顔を上げた。
「あ……えと、あなたは……」
「おう、驚かせて悪かったな。そろそろ移動する予定なんだけど、どうする?」
「どう……?」
 なにを訊かれたのかわからず、ギュールズはきょとんと目の前の男を見返した。それを正面から見返して男は……呆れ顔で笑った。
「あんたって、集中したら周りが見えなくなるタイプ?」
「え?」
「ギュールズさま!」
 ぽかんとしていたらニーナに呼ばれた。振り返ると馬車の後ろ、荷台の幌の中から彼女が現れる。が、ニーナの顔の痣がよくわからないくらい、辺りが暗くなっていることに気づいた。はっとして顔を上げ、無意識に太陽の位置を探す。
「ギュールズさま、夕食になさいませんか」
「え? えっと……」
「あんたもニーナと一緒に後ろに乗りなよ。で、メシにしな」
「あ、あなたはどうするんだ?」
「俺は馬車を動かす。食事は片手でできるさ。慣れてるからな」
 ほれほれ、と追いやられそうになって、ギュールズは本を抱え直した。
「わ、ちょっと待ってくれ!」
「んん? 待つとどうなるんだ」
「だから……えっと、俺もここに座っててもいいか」
「はあ? ここでなにするんだよ」
「もうすぐ星が出るから、見たいんだ」
 天文便覧を抱えてきっぱり言うと、セインは少し目を細めた。そして。
「ニーナ、ギュールズさまの食事をこっちへ」
「え?」
「おまえは後ろに乗ってたらいい。ギュールズさまは前だ」
 気だるそうなのに、妙にきっぱりと彼は言った。反論するかと思ったが、ニーナはわずかな沈黙の後、さっと踵を返すと、なにやら手に戻ってきた。
「こちらが食事です。それから膝掛けもどうぞ」
 そう言ってニーナはそれ以上なにも言わずに荷台の幌の中へと引っ込んでしまった。
 ギュールズが御者台に座り直すと……一頭立てだったはずなのに、目の前には二頭の馬の尻があった。一頭はここまで自分たちが乗ってきた馬だ。そうやって並んでいても違和感ない。セインの馬車と馬は、露店商が使っているものにしてはかなり立派だった。
 それにしても、いつ馬を繋いだのかまるで気づかなかった。周りが見えてないと言われても仕方ない。
「動くぜ」
「あ、ああ……」
 ギュールズの返事とほぼ同時に、セインは馬に鞭をいれた。
 馬車に揺られながら、色が濃くなっていく空を見上げる。
 この空はファーンから見上げる空と変わらない。空の色も、星の配置も。違うのは、ギュールズのいる場所と着ている服だけ。
「メシ、食いなよ。冷める前に。星はもう少ししてからのほうが見えるだろう。その前に食べておけって」
「……そうだな」
 勧められてギュールズは素直に食事にかぶりついた。
 しばらく沈黙し、ギュールズはちらりと隣を盗み見る。この年上の男はすごくきれいな顔をしているが、どこか面倒臭そうな顔にも見える。なんだかちぐはぐな感じだ。
「セイン」
 ニーナが呼んでいた名を口にすると、彼は振り向いた。
「ん?」
「……と、名前で呼んでいいのかな」
「おう。あれ、俺、あんたに自己紹介もしてなかったっけ」
「ああ、まあ」
「でもあんたもなんにも聞かないタイプだろ。ニーナとかのこと、どこまで知ってるんだ?」
「え……っ」
 ギュールズは、言葉が出てこなかった。まったくもってそのとおりだ。
「まあいいけど。俺はセインでいいよ。皆そう呼ぶ」
「皆?」
「そう。俺たちの仲間。俺は一応星詠みだから、わりと顔が広いんだよ」
「ほ、星詠み?」
 少し、声が裏返った。でもそういえば、天文便覧が欲しいと言ったとき、ニーナが確かそう言ったような気がする。
 セインは……ギュールズがひとりでぐるぐる考えたのをどう思ったのか、ははは、と声を上げて笑った。
「あんたはファーンの魔法使いさまだろ? 頭がいいくせに視野が狭いなあ」
 その言葉はぐさっとギュールズを刺した。それを見て、またセインが笑う。
「まあそう落ち込みなさんな。そのために俺らがいるんだから」
「……いる?」
 なんとなくその言葉が引っ掛かった。
 セインに指摘されるとおり、ギュールズは確かにちょっと周りを気にしないところがあるが、ここ数日ニーナの言葉に敏感になっていたので、セインの言葉の奥にある言葉の意味が、いまは気になった。
「うん? そうだろ。これから一緒に行動する、て意味だよ」
「一緒に……?」
「あれ? そのために来たんじゃないのか?」
 ギュールズは目を丸くした。自分の知らない……いや、知ろうとしなかったなにかが、確実に動き出している。しかもどうやらギュールズを中心にして。いつまでも目を伏せていては置いていかれてしまう。
「まあ、ここから、だよ」
 セインが空を見上げて言った。星詠みの目にはこの空にはなにが見えるのだろう。
「とりあえず、よろしくな、ギュールズさま」
 それに答えたギュールズの声は、遠くで派手に上がった花火の音にかき消された。