三章 紺の星詠み
ギュールズを乗せた馬車は、それから速度を上げて南西へと街道を進んだ。いままでのように途中でセインが行商することもなくなり、食糧などの買い出しのためだけに足を止めた。
セインは暦本を売らなくなったかわりに、ふらりといずこかへ消え、サグーンとウィンダリアの情報を集めてきた。
ギュールズとしてはファーンの動向も気になっているのだが、故意なのか、それともいまの彼らに必要ないと判断されているのか、セインはファーンのことはなにも教えてはくれなかった。
あるいは、訊けばなんらかの答えをくれたのかもしれないが、ギュールズは訊かなかった。
訊けなかった。
……怖かったのだ。
不穏だという他国の話に心を奪われているほうが、祖国を気にせずにいられた。結局のところ、ニーナとセインに頼りきっていたのだ。
その夜は街道を進んで、はたから見ればそれほど急いでいるようには見えなかったかもしれないが、馬車に乗っている立場で言うと、文字通り進み続けた。
休憩と呼べるものはなかった。
ギュールズはただ座っていただけだと言われたらそのとおりなのだが、それでも結構疲れたのだ。ずっと御者台で手綱を握っていたセインなどさぞ大変だろうと思った。
街道沿いの、旅人たちが集まっているところでようやく足を止めたのは、太陽が沈んで空が群青色に変わった頃だった。
どうやらこの場所は昼間は市になり、夜は野営地になるようだ。これもアンデルシアの設備なのだろうか。
ニーナが用意してくれた夕食をとりながら、ふと目をやると、セインは変わらず御者台に座っていた。
「セイン」
近寄って呼び掛けると、じっと夜空を見上げていた彼は、ゆっくり振り向いた。
「ん?」
「あなたも疲れただろう。こちらに降りて一緒に休もう」
「いや……俺はいい」
にべもなく答えると、セインは再び夜空に目を向けた。
短い答え、そっけない態度。これまでどうりであるとも言えるけれど、別のようにも受け取れる。
「……あなたも星を観測するのか」
空を見上げる美しい横顔は、くつろいでいるようにも疲労で呆けているようにも見えなかった。じっとなにかを見つめている。
しばらく無言だったセインは、けれどなかなか立ち去らないギュールズに根負けしたのか、またゆっくりと振り向いた。夕闇の中でも煌めくような碧の髪と白い顎のラインが浮かび上がる。ギュールズは男性なのに美人だと形容できる人がいるんだな、と感心した。
「俺の場合、星を観測しているんじやないんだよ、ギュールズさま」
「では、なにを見ているんだ」
「まあ見てるものは星だけどな。忘れてないか、俺は星詠みなんだよ」
言われて……思い出した。すっかり忘れていた。ギュールズの表情に答えを読み取ったらしいセインは、声を立てて笑った。焦ると同時に、ちょっと珍しいと思う。セインはあまり、笑わない。
「あんたは俺をなんだと思ってたんだよ。資金調達係? 情報収集係?」
「あ、いや……」
「普通は星詠みのほうが貴重だと思うが?」
「……失礼、した」
頭を下げて謝ると、セインはまた、おもしろそうに笑った。
「おもしろいやつだな、あんたは。謝ることはないよ、星詠みなんて偉いもんじゃない。少数派ってことは不良品ってことかもしれないからな」
「な……!」
ギュールズは驚いた。
数が少ないうえ、後天的には得られない能力だから、どこの国に行っても彼らは優遇される。
けれど王家や貴族といった権力者は星詠みを手元に置きたがるが、彼らはひとところに居着かない、とも聞く。
セインひとりを見てすべてを判断するのは間違っているかもしれないが、確かに彼は、たったひとりの主の前に膝をつくという感じではない。
すいっ、とセインが腕を伸ばした。
白い指先が空を指す。
「星を見ていた。世界で最も煌めく三つの星がある。そのうちのひとつは森の王国を示す星だ。白き星は大地の豊かな国を象徴するだがこの星が揺らぎ始めたのは少し前だ」
「え?」
星詠みの紡ぐ言葉の意味はギュールズにはわからない。
いつの間にか後ろにやって来ていたニーナを軽く振り向いて目を合わせたが、ニーナもわずかに首を振るだけだった。
「赤の光は終焉の兆し。だが星とは……もっと時間をかけて変化するものだ」
セインは睨むように夜空を見つめている。
「早い変化は良い結果をもたらさない。……と、いうのは俺の持論だ」
ふーっとセインが大きく息を吐いた。
と同時に、ニーナがさっとギュールズの腕に寄り添ってきた。
「な、なんだ?」
「誰かいます」
ギュールズの腕に手を添えたニーナが、短く鋭く告げた。
え、と驚いて慌てて周囲に目を向けるが、ギュールズに彼女が警戒する理由……人の気配などは、まったく感じ取れなかった。
「大丈夫だ、ニーナ、ギュールズさま」
ひとり、馬車の上で空を見上げていたセインが、まるですべてわかっているかのように呟いた。
ニーナがはりつめていた警戒を解く。
「あんたはちょっと、変わり者に好かれる体質だったりするのか、ギュールズさま?」
「ええっ?」
突然おかしなことを言われて目を丸くした。
変わり者、とは誰のことを言っているのだ?
「それはつまり、てめえ自身も変わり者だと認めたってことだよなぁ、セイン?」
まるでセインに答えるように知らない声が割り込んだ。
いや、セインに向かって喋ったのは間違いない。
セインもこの声の主がそこにいると気づいているのだろう。
ギュールズは声のしたほうを振り仰ぐ。
声は……頭上から届いたような気がするのだが。
そう思ったとき、ばさり、と青いものが視界を覆った。
それは一瞬の出来事だった。
ギュールズが上を向いたとき、そこにはすでに揺れている木しかなく、青い残像を追って目を向けると、馬車の脇に奇妙な格好の男が、まるでどこかの国の騎士のように、跪いていた。