三章 紺の星詠み

 暖かい風の吹く牧草月も終りが近づく満月の日。
 世界最大の王国アンデルシアの光都アレグストーでは、第一王女の誕生祭が盛大に執り行われていた。
 その華やかな喧騒が届かない場所、アンデルシアの南西に位置する森の王国ウィンダリアでは、高らかに鐘が鳴り響いていた。
 ギュールズは初めて耳にする鐘の音に、なにか不穏な雰囲気を感じ取って、荷馬車から顔を出した。
 幌の間から首を出しても鐘の音ははっきりと聞こえるわけではない。
 なのにくぐもったまま突き刺すように響き渡っていた。
「……セイン。なんだ、この音は」
「ウィンダリアの焔の鐘だろう。だが……これだけ鳴っているのはちょっと異常だな」
「ほむらの鐘?」
「ああ。森が国土のほとんどを覆い尽くしているからな。火災が最も危険なんだ」
 火災、と聞いてどきっとした。
 ウィンダリアの広大な森というのをギュールズは実際目にしたことはないけれど。
 子どもの頃、雑木林が燃えて大変だったのは見たことがある。野焼きの際に火が移ったのだったか。
 消すのはとても無理で、火が広がらないように周囲の木を切って水を撒くのだ。
 ファーンのさして豊かとはいえない雑木林でさえ、怖いと思ったものだ。
 あれが森だったら、どうするのだろう?
 ギュールズはごそごそと御者台へと這い出した。
 セインが少し横にずれてくれる。
「左手奥のほう……見えますかね?」
 いつもと変わらない表情で手綱を握るセインが、隣に座ったギュールズに声をかけた。
 言われたほうへと目を向ける。
 街道の左手には数軒の物売りが座していたが、それらの背後遠くには森と思われる黒い壁が見えた。
 まるで壁のように立ちはだかっていたのだ。
 その上には青い空、白い雲……いや違う。
「……煙?」
「ええそうです」
 雲だと思ったのは森から立ち上る白煙だったのだ。
 なにを燃やしたらあんな量の煙がでるのだろう、と驚き、なにが燃えているのか思い出して愕然とした。
 森だ。
 森が燃えているのだ。
「ウィンダリアの防災設備は高度なのか?」
 ギュールズの耳には鐘の音が届く。
 が、風向きの問題だろう、途切れ途切れだ。
「あの国の文化基準にしては優れているそうですが、森林火災に太刀打ちできるかは別の話だな。俺は見たことないけど」
 そうか、とギュールズは呟いた。
 ファーンとウィンダリアの間には、国交がほとんどない。
 あの国は魔法使いを一切受け入れていないからだ。
 だからといって、目の前で火災が起こっていると聞けば、あまりいい気分にはならない。
 なにかあったとき、犠牲になるのはいつも下層の一般市民だ。
 どんな国でも、どんな状況でも。
 ギュールズはウィンダリアの空から目を逸らした。
「……セインは」
 ギュールズは座り直すと、馬車を曳いている馬の尻尾を眺めながら口を開いた。
「はい?」
「アンデルシア人なのか?」
「ええ、まあ、一応」
「ずっとアンデルシアにいるのか」
「だいたいは。でもファーンやウィンダリアの空気を吸ったことがないのか、というと、一応少しは踏み込んだことはあるよ」
「そうなのか」
「ま、観光に行ったことがある、ていうくらいだけどな」
「観光?」
 なんだかその単語がセインに不似合いで、ギュールズは少し首を傾げた。
 けれどすぐに考え直す。
 セインは書物を売り買いしている行商人だ。
 ウィンダリアの暦本を持っていたのは、つまりウィンダリアにも商売に行ったことがある、という意味だろう。
 ひとりで答えを導き出して納得したギュールズに、セインはちらと視線をやったが、それだけだった。
「マルスは」
「はい?」
 続けてギュールズが口にした名に、セインは少し嫌そうな顔をした。
 ギュールズはほんの少しだけ微笑んで、続ける。
「アンデルシア人なのか?」
「いいえ、ちがいます」
 やたらときっぱりと言い切られた。
「ちがうのか」
「ちがう。あれは……どこだか知らないが、もっと北の方の出身だろう。そういう顔立ちじゃないか?」
「顔立ち、か。俺にはよくわからないが」
「ま、これからいろんな人間に会えば、そのうちなんとなく気付くだろうよ、あんたは賢いから」
 そんなふうに褒められても、困ってしまう。
 確かにファーンの魔法使いになるには相当の知識が必要で、自分はそれなりに優秀なほうだったという自信はあるけれど、この数日、世の中知らないことばかりだと痛感させられることばかりだというのに。
 そして彼らのことを知ろうと思ってこうしてたずねているのに、知るよりは新たな疑問のほうが増えてしまう。
 これからいろんな人間に会う、とは、どういう意味だろうか。
 人目を避けて逃げているはずなのに。
 そんなギュールズの心境を気にも留めず、けれどセインははあ、と息を吐いた。
「まあ、そういうことは俺よりあいつのほうが物知りだな」
「え?」
 セインがうんざりという声音で言う相手を、ギュールズは一人しか知らない。
 セインを見て、その視線を追いかけて……前方にいる紺色の星詠みに気付いた。
 いなくなったと思ったら、先回りして待っているなんて。
 セインの操る馬車はどんどん彼に近づいていく。……なのに、セインはちっとも速度を落とさない。
 あれ、と思っていると、マルスが跳んだ。
 ばさり、と黒いマントが広がり、ギュールズの視界を覆う。
「よっ、と!」
「うわっ!」
 羽飾りのついた帽子を手で押さえて、マルスがギュールズの隣に着地した。
「……おいマルス。この馬車の御者台に男三人は狭い」
「仕方ないだろー。いちいち殿下にどいてって言うわけにもいかないし」
「ギュールズさまがいるときは飛び乗るな」
「飛び乗らないとおまえ馬車止めないだろー」
「なんでおまえのためにこっちが足を止めてやらなきゃならないんだ」
 ギュールズを挟んでセインとマルスが言い合う。
 なんだか自分がいるのが間違いだったんじゃないかと思えてきて、ギュールズが肩をすぼめる。
 が、するとすぐにマルスが見下ろしてきた。
「おいおい殿下、そんなに小さくなるなよ。あんたはそんな器の小さい男じゃないだろ?」
「まったくだ。そいつのためにあんたが小さくなる必要はないよ、ギュールズさま」
 すぐさまセインも加勢した。
 おかしい。
 なんだかんだいって、ふたりの言うことはときどきすごく、似ている。それがちょっと、笑えた。
 だからふたりの星詠みを交互に見上げてギュールズは少し笑った。
「いや……マルスはいつもこうやってセインと合流するのか」
「したくてしているわけじゃないけどな。こっちは乗ることを許可した覚えはない」
「この馬車ならタダなんでね。それにセインのやつはいっつも同じ道しか通らないからさ」
「当たり前だ。こっちは商売をしているんだ。おまえのように気ままにぶらついているんじゃない」
 一言言えば、同時に返事がある。
 いや、返事というか、いちいち角を突き合わせている。
 こういう、憎まれ口を含めてぽんぽんと言い合える友人というのを持ったことのないギュールズは、うらやましい、と胸の中で思った。
「えっと、それでマルス。なにか新しい情報は?」
 自由に飛び回るマルスは、自分の知らない広い世界を知っているのだろうな、と思う。
 今までの研究と研鑽に明け暮れた生活も、ギュールズは嫌いではなかったけれど。
 外へ出てみると世の中は本当に広くて、知らないことだらけだった。
「んー」
 マルスはあやふやに言って目を閉じた。
 と、思ったら、ぱちっと開いた。
「ここでも聞こえてるな」
「え? きこえる? ウィンダリアの鐘のことか?」
 そうそう、と頷くマルスに、あの国の様子がわかるのかとたずねようとしたら。
 マルスはなんだか、ぞっとしない顔をした。
 いつものわざと作った道化師の顔とは、ちょっと違うように思った。
 もっと心の底から……なんだろう。
 どんな感情がのぞいているというのだろう。
「そう、殿下にも聴こえているかい? あの国の、終焉の鐘の音が、ね」
 その言葉と表情に、ギュールズは……ぞっとした。