四章 道標なき旅路
光都の祝祭が執り行われた満月の日から二日後。
軍事大国サグーンは、世界の名だたる国家、機関に向けて一斉に、一方的に、その事実を突きつけた。
曰く。
森の王国ウィンダリアは、その国の象徴と共に歴史の灰となった、と。
サグーンにしては気の利いた冗談だ、などとは誰も思わなかった。
国境を接するサグーンとウィンダリアという相反する性格の国家が、長年睨み合っていたことは周辺国家には良く知られていたことだ。
けれどいくら温厚な国民性のウィンダリアのほうが分が悪いとはいえ、こんなふうに目の前から消えてしまえるほど、かの国は小さくなかったのに。
「……この人たちは、ウィンダリアの難民?」
馬車が進むのとは反対の方向へ、多くの人々がぞろぞろと歩いている。
大きな荷物を抱えている人、家族連れ、あの牛は家畜だろうか。
「そういうことになるんだろうな」
御者台のセインは視線を巡らすでもなく淡々と応じた。
難民、という言葉に躊躇いを覚えるほど、彼らは小ぎれいで、サグーンからの通達を知らなければ、なにがあるのだろうと興味本位で声をかけていたかもしれない。
「ギュールズさま、砦が見えてきたよ」
さらりと告げられた単語に、ギュールズは顔を上げた。アンデルシアとウィンダリアの国境には、意外と大きな砦が設けられていた。
御者台に座っているため少し視点が高いので見渡せるのだが、そこからウィンダリアの人々がぞくぞくと吐き出されてくる。
反対に、中へ入っていく人はほとんどいない。
「国境砦があるわりに、入国はあまり停滞していないみたいだが」
「そうだろうよ。あの砦はもともと、魔法使いや他国の軍人なんかがウィンダリアに入ってこないように、というのが役目だからな」
「は?」
「あの国は驚くほど保守的でな」
「……はあ」
いまどきそんな理由で砦なんか置くのだろうか。
国境というのは兵卒こそ配置されていることは多いのだが、たいして目を光らせているわけではない、というのが、一般的だ。
「あ、え、じゃあ俺たちはどうやって入るんだ」
「心配しなくていいよ。言っただろう、俺たちの本拠地はウィンダリアにあるって」
ああ、そういえばそうだなあ、だから向かっているんだよなあ、と納得しかけて、はっとした。
「ウィンダリアが滅びたとかそんなことになったら、君たちのところも危ないんじゃないのか」
「ギュールズさま、そこ、気付くの遅いよ」
「う……すまない」
「俺たちも太鼓判押して大丈夫とは言い切れないけれど、まあ大丈夫らしいよ。あんたを迎え入れるくらいはできるさ」
そういうことを心配しているんじゃないんだけど、と内心思ったのだけれど、まあ大丈夫、というのならまあ……いいのか?
いまひとつ納得しきらない間に、馬車は砦の前へとたどり着いた。
セインがきょろ、と少しなにかを探す素振りをして……はあ、と息を吐いた。
その視線の先に慌てて目をやり、そして、羽のついた黒帽子を見つけた。
なんだか、目立つ。
「よう、通れよ。こっちだ」
黒マントの道化が手を振る。
ため息をついたセインは、けれど無視するではなく、黙々と手綱を取って、マルスのいるほうへと馬車を進める。
それはいくつかある門のうち、一番端のものだった。
マルスは馬車がやってくるのを待たずに、マントを翻して中へと入っていく。
砦は石造りで、馬車ごと入っていくと内部はややひんやりとしていた。
そこにマルスの姿はなく、ここの役人らしい人物が待ち構えていた。
「ギュールズさま、ちょっと降りてくれるか」
セインがそういうので、ギュールズは深く考えずに頷いて、いそいそと御者台から降りた。すると目の前にニーナが待ち構えていて少し驚いてしまった。彼女はいつ荷台から降りたんだろう。
「ギュールズさま、こちらへ」
ニーナが一礼して先導していく。
まるで勝手知ったる様子に、知らないのは自分だけか、と気付く。
ニーナが押し開ける扉は重そうで、手を貸そうと手を伸ばしかけると、その前に扉は開いた。
ギュールズは……目がくらんだ。
まぶしかったわけではない。
後で考えても理由はわからなかったけれど、でもそう思ったのだ。
部屋に入るとニーナはすっと退けてしまい、ギュールズはまるで放り出されたような錯覚に陥った。
だから目が回るような感じがしたのかもしれない。
その部屋はまぶしいとはまるで反対の、薄暗い部屋だった。
部屋の中には十人……いや二十人ほどの黒い服の娘たちがいて自分に注目していた。
「ギュールズ・ルビオット」
誰かが名を呼んだ。
誰なのかはわからなかったし、そのひとりを特定することに意味があるとは思えなかった。
「われらが紅き月の王に……」
黒い娘の言葉に、ギュールズは意味もわからず硬直した。
ファーンの魔法使いにはほとんど信仰されていない神殿の言い伝えの中に、蒼き月の王、というのが登場する。ギュールズは庶民階級だったので、そういうものに触れる機会があった。
その子どもの頃に、思ったのだ。
月というのは紅いのに、どうして蒼い月の王というのだろう、と。
月とは、魔法の象徴。だから魔法と魔法使いに重きを置いているファーンは、赤という色を多用している。
「おいおい」
背後から聞き慣れた声が響いて、ぽん、とギュールズの肩に手が触れた。それで、なにかから解放された。
「いきなり大人数で押しかけるなよ。ギュールズさまが驚いているだろ」
ギュールズを押しのけるようにしてセインが入ってきた。
黒い娘たちの視線が自分から逸れ、ギュールズはほっとする。
「星詠みのセイン」
「邪魔をするな」
「邪魔っていわれてもなあ。おい、マルス。おまえもこういうときだけ静かになるなよ」
セインの言葉に、マルスが部屋の隅に座っていることに初めて気付く。ギュールズと目が合うと、マルスはにやりと笑った。彼がぴょんと勢いよく立ち上がると、帽子の羽がぴよぴよ揺れた。
「いやー、殿下がどんな反応するか見てみたくてさあ」
ぎゃはは、とわざとらしく笑う。
これは……馬鹿にされたのだろうか。
ち、とセインが舌打ちした。
「ふん、どうせおまえはそういうやつだよ」
「なんだ? 俺になにか期待してたのかよ」
にやにや笑うマルスを、セインは無視した。
「ああ、ギュールズさま、マルスのやつはほっといて。あと、ニーナを責めるなよ。あの子は彼女たちには逆らえないんだ」
「え?」
驚いて、慌ててニーナを探したが、咄嗟には見つけられなかった。そして……ふと、気付く。ここにいる女性たちは、どことなくニーナに似ている。この、人形のような雰囲気が。
「まったく。こうなったら仕方ない。ギュールズさま、ここにいる娘たちは……」
セインが投げやりに彼女たちを示した。誰もが同じような黒い服を着ている。どこかの軍服のようにも見える。そしてひとりの例外なく黒髪だ。黒髪が多いファーンに生まれ育ったギュールズにさえ、異様に思えるくらい黒ばかりだ。
そして、ようやくギュールズはあることを思い出した。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
ずっとニーナがそばにいて、彼女は確かに噂どおりだったというのに。
そうだ、彼女たちは。
「彼女たちは」
セインの声が、静かにその呼称を紡いだ。
「黒姫と呼ばれている」