四章 道標なき旅路
目の前は、荒野だった。
建物の反対側に出たら、ここまで乗ってきた馬車が目の前にあった。どこか別のところを通って先に国境を越えていたらしい。
「あれ、この馬、弧蒼の馬じゃなくなってるぜ」
マルスが馬車の前へまわりこんで言った。
「ああ、替えがあったのか。というか、弧蒼の馬をここへ置いていっていいのか?」
セインが建物のどこかを振り返る。
マルスも同じ方向へ眼をやって、ふたりは不自然に止まった。
けれどそれは一瞬で、すぐに前を向いて動き出す。
「じゃあ、行こうか」
さっき自らが発した疑問などなかったかのように、セインはギュールズを見て言った。その様子はいつもと少しも変わらない。
「行っても……いいのか?」
ふたりの星詠みが馬車に乗り込もうとするのに、ギュールズは足を踏み出すことができなかった。
馬車の陰からニーナが姿を現す。黒い姫たちとともに消えていたのだが、戻ってきたようだ。
「ギュールズさま……」
「俺は、君たちのところへ行っていいのかな」
「はい。あなたをお待ち申し上げています」
向ける方向のわからない疑問を、ニーナがすくい上げる。
「どうして」
「わたしたちの王になっていただけると思っているからです」
「どうして」
「ギュールズさま……?」
「きみたちは俺のことを知っているのか? 何を知っているんだ。ずっと、ただ魔法の研鑽しかしてなかった。そういう俺を知ってるとして、どうして王なんて言うんだ?」
ニーナに向かって言ったのではない。
セインやマルスに向かって言ったのでもない。
眼前に広がる、なにやら荒涼とした大地に向かって呟いた。
目の前はやたら開けていた。なにもない。いや、木片というのか、なにかの残骸があたりを埋め尽くしている。
この光景が、なんだか自分に似ている、と思えたのだ。
なにもない。なにかの跡だけはある。でもそれらはすべて、かつての姿の燃えかすでしかない……。
「あんたがファーンの魔法使いだってことは皆知っているが」
セインが御者台に乗り込んで、ギュールズを見下ろした。
「あんたがどんな人か、てのは、あんまり誰も理解してないだろうよ」
淡々と、それが事実だから、ただ言葉にする。
「でも今の連中……ああ、黒姫たちのことだが、姫君たちは王を迎えるというのがどうやら命題だと思っているらしくてな」
「……どうしてだ?」
ギュールズは繰り返したずねた。
まるで子どものようだと思ったが、無知だという点では子どもとかわらないか、とも思った。
「それを説明するのはまず無理だ。なんで黒姫が存在するのかっていう説明と同じだ。あんたはどうしてファーンが生まれ、魔法王国になったか知ってるか。それをここで一言で説明できるか。黒の姫君のことはそういう感じだ。意味も理由もあるだろうが、まあ、そういうもんだと大雑把に捉えることをお勧めするよ」
セインはいつもの、どこか突き放したような口調で言って、で、乗って、と軽く促した。
「……乗ると、どこへ行くんだ」
「塔。俺たちの本拠地。さっきの姫君たちもそこにいる」
「行って、どうするんだ」
「どうするかは、あんたが決めな、ギュールズさま」
「ならば」
「でもここで先にそれを考える、てのはお勧めしない。生きていくにはとりあえず、人が生活できるところまで行くべきだ」
セインの言うことは、きっと正しいのだろう。
にやにやしているマルスも、きっとセインの言い分に賛成しているに違いない。
彼らは集団に所属しているわりには、言動がとても自由だ。帰属する場所のないじぶんのほうがよほど縛られている。
……なにに?
「ニーナ、乗って」
セインが促した。
「……でも」
「いいから早く。マルス、おまえも乗るのか」
「おう。こうも荒野じゃ寄り道するところもなさそうだから乗ってく」
ニーナが荷台へ上がり、マルスが黒のマントと羽付き帽子を揺らして御者台に飛び乗った。
そして、道化めいた仕草で振り向いた。
「ほら、ギュールズさま、乗ったのった。人生あきらめも肝心だぜ」
そう、軽い口調で言った。
セインがマルスの名を呼んで咎めたが、……マルスのいうとおりかもしれなかった。
ギュールズは、なにかにしがみついているだけなのだ。
着いたときと同じく、男三人で乗るにはやや狭い御者台で、ふたりの星詠みに挟まれて、ギュールズは国境砦を後にした。
男三人は、やっぱり、狭かった。
手綱を持っているセインはまあ仕方ないというか当然として、ギュールズは自分が後ろの荷台へ引っ込むべきだろうか、と迷っていたのだが、先に抜け出したのはマルスのほうだった。
ひょいっと身軽に荷台の幌の上に飛び乗る。背が高いのだからそれなりに体重もあるだろうとか思うのだが、まるで重さを感じさせない様子で高いところに座っている。
「マルス、そこから何が見えるんだ」
ギュールズが声をかけたのは思ったことがあったわけではなく、ひとりでふさいでいては考えが堂々巡りになるから、いわばちょっとした気分転換のつもりだった。マルスなら空気を打ち破ってなにか喋ってくれるのではないかと期待した、というのもあった。
「ああ……見えるなあ」
すぐにマルスは答えてくれたが、けれどそれはギュールズが予想したような、陽気な声ではなかった。
「マルス? 何が……見えるんだ?」
ギュールズは振り仰いで荷台の上を見上げた。そこに座っているらしいマルスの黒いマントが見える。そして帽子の羽が。どうやら彼は進行方向ではなく、南のほうを向いているらしい。
「なあ、ギュールズさまは、海を見たことあるのか?」
「海?」
言われてギュールズは南のほうへ視線を転ずるが、見えるのは木々の残骸ばかりだ。
「海といえるかどうかわからないが、アンデルシアの港には行ったことがある。ドールズ港というところだが」
「ああ、奴隷港ね。なんでそんなとこ行ってんだよ」
マルスがぼそぼそと呟いた。
奴隷港? なんだ、それは?
「じゃあ船は見たことあるんだな」
「ああ。商船が並んでいた。大きいものはすごく大きいのだなと思った」
「ふーん。なら軍艦は?」
「え?」
「軍艦。軍船って言うかさ」
「それは……資料でしか見たことないな。だいたい所有しているのはサグーンだけなんじゃないのか?」
「公式にはな」
なんだか含みのある肯定を寄越すマルスを、ギュールズは再び振り仰いだ。相変わらず黒マントと羽帽子しか見えない。
「見たいか?」
マルスがぼそっと言うと、それまで黙っていたセインが、マルスの名を呼んで制した。咎めた、ともいえるかもしれない。
「いや、まあな。でも、どうあっても味方にはならない国だよなあ、サグーンってのはよ!」
吐き捨てるように言われた台詞に、ギュールズは南へ顔を向けた。倒れた木々、こげ跡のある木々、その向こうは見えないけれど、この大地とあの空の間には海があるはずだ。
「サグーンの軍艦が、そこから見えるのか?」
「うーん。見えなくもないなあ」
「なんだって?」
「多分さ、仕事が終わったから、帰ってんじゃねえの?」
「仕事?」
「ウィンダリアにも当然、港があっただろうからな。なんていうか……」
マルスが言葉を止めた。ギュールズが見上げると、羽帽子が揺れた。
「完膚なきまで、てのは、こういうことだねえ」
まるで客観的に呟いた。
その距離の置き方が、いまは救いなのかもしれなかった。