四章 道標なき旅路

 ニーナがいなくなって変化したのは、ただギュールズの気持ちだけだった。
 なんとなく、彼女を置いてきたというのが罪悪感に近い重石になっていた。
 けれど旅の足には変化がなかった。
 セインは相変わらずどこかだるそうに手綱を持って、のんびりではないが急いでいるともいえない速度を保ったまま進んでいく。それはこれまでとずっと同じ、変わりはない。
 マルスは姿をくらますことなく、荷台に上ったり、中で昼寝をしたり、または御者台でギュールズにちょっかいを出してはセインに冷たくあしらわれたりしていた。ずっと一緒にいるのは、マルスが言ったとおり、ここでは他に行く先がないだけだろうから、ニーナがいようがいまいが関係はなさそうだ。
 感心したのは、セインのことだ。
 いままでニーナが用意してくれていた食事の準備を、全部セインがやってくれるようになった。
 面倒臭そうな顔をして、気づけば何でも彼がやってくれている。
 ギュールズは手伝おうとしたが、わからないことが多くて、まるで役立たずだった。
「そう落ち込むなよ」
 何一つ手伝わないマルスが、でも食事には欠かさず輪に混ざっていて、ギュールズの背中をぽんぽん叩いた。
「いや……落ち込むというか」
「ニーナのやつはそのうち戻ってくるだろうから気にしなくていいって」
「……ああ」
「俺たちに世話になってることなら、出世払いでいいぜ?」
「おまえが一体なにをしてるって?」
 黙々とスープを口に運んでいたセインがぼそりと言った。
「俺はギュールズさまの世話ならやってもいいが、おまえの面倒を見る気はさらさらない。勝手に食べるな」
「うるせー。大目に見ろ」
「大目にも限度があるだろうよ」
 ふたりの会話もいつもどおりだ。
 けれど。
 いつもどおりとは、なんだ。
 この、どこへ、なんのために進んでいるのか、いまひとつ納得できる答えのない、目的地のあやふやな旅が、いつの間にか、いつも通りと感じてしまうのはなぜだ。
 ギュールズにとっていつも通りなのは、深紅の法衣に身を包み、目のくらむ膨大な資料に埋もれ、新しい事象を他人より先に確立すべく研鑽を積むことこそが、ギュールズ・ルビオットの日常ではなかったのか。
 星詠みたちとの食事を終え、セインが後片付けを始めると、マルスは荷台の中に入ってしまった。たぶん、夜になるまで眠るのだろう。彼の生活に規則正しいという言葉はまるで存在しない。
 ギュールズはなんとなく同じように荷台に入り、そして隅に忘れられている自分の荷物に近寄った。
 魔法王国ファーンの魔法使いの証である、赤の法衣。
 これを手に入れるのには、かなり努力した。
 それはギュールズにとって、いやファーンの魔法使いならばだれでも、誇りに思っているものだ。
 大切なもの。
 たとえ二度と着ることが許されなくとも、絶対に手放せない、と思う。
 そして、杖。
 ギュールズはそこに転がされていた杖を、そっと手に取った。
 以前だって簡単ではなかったが、それでも必要な力を自分の中から引き出すための集中なんて、一瞬で出来たはずなのに。
 今は両手で杖を握り、心の中に深く深く潜っても、魔法の力に触れられもしない。
「……それ、封印くらったのかよ」
 背中に声をかけられて、ギュールズの集中はあえなく霧散した。
 声の主は考えるまでもない、昼寝をしていると思っていたマルスだ。
 振り向いてみると、マルスは体を半分だけ起こして、頬杖をついていた。
「ああ」
 ギュールズは頷いた。
 城でかけられた封印術のおかげで、ギュールズはいままで当然のように、そして生きるすべてのように扱っていた魔法を、すべて取りあげられてしまったのだ。
「あんたはそれ、自分で解けるのかい?」
「……さあ。やったことはないが」
「心許ない返事だなあ。あんたは優秀な魔法使いなんだろう?」
「どう、だろうな」
 ギュールズは杖を置いた。
 優秀だと思われていただろうし、自分でもそうあろうとしてきた。
 けれど、いまの自分にはもうなにもなくて、本当に優秀な魔法使いだった過去の自分が、いまの自分と同じ人間なのかわからなくなってきた。
「おいおい。しっかりしてくれよ。否定的になったらどんどん堕落していくぜ?」
 なんだか見透かしたようにマルスが笑った。
 だらだらしたマルスが堕落とか言うのがおかしくて、ギュールズはくす、と笑んだ。
「あ、笑ったな。俺のことを堕落してると思ってるだろう」
「いや、そんなことは」
「いいんだよ、俺は。あんたとはちがうんだ。で、あんたはその封印、自分で解けそうなのかって」
 堕落、しているようにも見えるが、そうではないということをギュールズはもうわかっていた。
 マルスも、そしてセインも、一見真面目な態度ではないが、彼らの表面と内面はだいぶちがう。
 自分は……。
 ギュールズはもう一度、杖を見た。
 封印術はその名の通り魔法の力を封じているだけだ。その仕組みはいくつか考えられるが、基本的な組み立てさえ探れれば、ギュールズにわからない術ではないだろう。
 自分には、やはり魔法しかないのだ。
 これがなくては、ギュールズがギュールズとして生きている意味がない。
 大袈裟かもしれないが、そうなのだ。
「……ああ」
 ギュールズは杖を手に取った。
 その先端に光を灯すだけの造作ない魔法だって、いまの自分には使えない。
 でも。
「解けるよ」
 さっきとは違う答えを口にした。
「きっと解ける」
 自らに言い聞かすようにもう一度口にすると、マルスはにやりと笑った。
「おお、さすがだな、殿下」
 わざとおどけたようにマルスは言って、ぎゃははと笑った。そしてごろんと寝転んだ。
「月が出てるうちに頑張れよ」
 そして本当に眠ってしまうだろうマルスに、短く返事をしてから、ギュールズは杖を持って外へ出た。
 セインは御者台に座って、書物をめくっていたが、荷台から出てきたギュールズにちらりと目を向けた。
 ほんの一瞬、杖にも視線を止めたようだけど、なにも言わなかった。
「セイン」
「おう」
 呼びかけると気だるそうに返事をした。
「俺もあの上に座っていいかな」
 そういって荷台の幌を指差すと、セインはんん? と顔を上げた。
 ちら、と幌を見上げ、それからギュールズを見て、呆れた顔をした。
「いいけど、あんまりマルスに影響されるなよ。確実に悪影響だ」
 しみじみ言って目を本に戻した。
 ギュールズは笑った。
 さて、マルスのようにこの上に身軽に飛び乗れない自分は、どうやって幌の上に登ればいいのかな、と考えた。