一章 (1)
アルスは、春の日差しにキラキラと輝く王宮を横目に、騎士団の前を通り過ぎた。
左手の騎士団からも、そして右手奥に見えてくる執政宮からも、人々が働いているざわざわとした気配が溢れだしている。
アルスが歩いているこの場所も、人々は早足に通り過ぎていく。
一方、今晩が夜勤のアルスは、のんびり起床してゆったりと昼食をすませて、そしていまここを歩いている。
勤務時間までにはまだだいぶ時間がある。
円形が基本の騎士団本館と、扇状の執政宮。
その間を北西へと抜ける小径は、きれいに整備されているけれど、人の往来は少ない。
というか、ほどんどない。
そんな石畳を歩いて行くと、分かれ道に突き当たる。
右側に続く道のほうが明らかにメインで、道なりと言われたらこちらに進むだろう。
その先にはエリート養成所ともいわれる王立学院がある。
アルスの母校でもあるが、卒業してしまえば用事のない場所だ。
アルスはそちらには目もくれず、左のさらに細い小径を進んだ。
背の高い木々をくぐるように抜けると、別の町にでも踏み入れたような風景になる。
そして、騎士団本館と同じ様式の建物が、ひっそりと現れるのだ。
入口の両脇に同じ木が植えられているのだがなぜか片方が、もう一方の半分の高さしかないというアンバランスな間を通り、扉へと近寄る。
建物自体はずいぶんと小さくて、王都警備の監視塔をひとまわり大きくしたくらいだ。
高さは数階ありそうに見えるが、内部は二階構造なのをアルスは知っている。
扉をあける。
明るいうちに来れば鍵がかかっていることはない。
中に入ると独特のにおいが迎えてくれる。
ほっとしながら後ろ手で扉を閉めると、視界の端でなにかが動いた。
ついその方向……吹き抜けから見える二階部分に目をやるが、階下からはほとんどなにも見えない。
見えないことを相手だって知っているだろうから、わざわざ顔を出さなければ、彼がいるのかいないのか、アルスが知ることもないのに。
いるときには必ずあいつは顔を出す。
でも顔を見せることはあまりない。
どうせここに入ってくるのは、アルスだけだと知っているだろうに。
ふっ、と息を吐いて歩き出す。
そして古い紙のにおいを吸い込む。
古い建物で、最近の利用者はもっぱらふたりだけのようだけれど、ほこりっぽくはない。
誰かが掃除をしているのだろう。
会ったことはないけれど。
ここは、資料館、と書かれてあった。
騎士団管轄の小さな図書館のようなところだ。
騎士団の創設者や教科書に載っているかつての英雄の肖像画やブロンズ像などもあったが、アルスはそれらにはあまり興味がなかった。
目的は奥に並んでいる本だ。
具体的な戦術書もあれば、まるで小説のような戦争の記録もあった。
どこまで本当なんだろうという歴史書もしくは神話のようなものもあった。
この国はこういった逸話を大事に取り扱う傾向がある。
アルスは読みかけの戦術書を棚から抜き取り、この建物で唯一の窓の前、アルスの指定席へと腰を下ろした。
大きな窓は木々の緑に青い空、わずかに見えている騎士団本館を、タペストリーに仕立てていた。
ここは静かだ。
人が行き来する場所から少し入っただけだというのに、隔離されているかのように誰も近づいてこない。
音もない。
アルスが本をめくる音以外なにも……いや、二階で椅子を引いたり本を棚から出し入れする音がときどき聞こえてくる以外、なにも。
ここは本や資料を読むという作業に思う存分没頭できる場所。
だから、かつん、という、建物の外から聞こえた小さな音に、アルスは気がついた。
けれどそれが靴音だと思うより前に扉が開いたので、結局おどろいてしまった。
がたん、という物音は二階から。
アルスがすでに来ているのを知っていたから、あいつも油断していたに違いない。
まさか自分たち以外の誰かがこの場所を訪れるなんて。
「おや? 先客は君たちふたりだけかい?」
入ってきた背の高い男性は、アルスと二階を見比べて、それから誰もいない書棚のほうに目をさまよわせた。
燃えるような赤髪に、長いマント……いや、ローブ。
アルスは一瞬動きが止まっていたが、我に返るといそいで本を置いて立ち上がった。
手を胸に当て、上位者に対する礼をする。
「どなたもいらっしゃいません、魔術師さま。いるのは我々騎士ふたりだけです」
「うんまあね、ここは騎士団の資料館だからねえ。いやなに、ここにわたしが探している資料があると聞いたので、探しに来ただけで、君たちの手を煩わせるつもりはないよ」
相手が魔術師とわかって二階から姿を現したもうひとりの騎士に向かって、魔術師さまは手を上げた。
わざわざ下りてこなくていい、と。
なので彼は階段の上で足を止め、そこで上位者への礼をする。
顔を上げると目が合って、にらまれた。
……どうしてだよ。
言葉通り魔術師さまはアルスの横をすり抜けて、書棚のほうへと歩いていく。
まとっている魔術師の白のローブは、足首に届きそうなくらい長い。
ローブやマントの長さは、そのまま官位の上下に比例する。
一番長いのはもちろん国王陛下で、マントを引きずっていいのは王族だけだ。
逆にアルスのような新米騎士は腰までの長さしかない。
さて、アルスは元のように椅子に戻って座っていいものか、困ってしまった。
ここは騎士らしく待機すべきところか。
と、考えたところで、今度は外から声がした。
また人が来たのかとおどろいたけれど、でもそういえば魔術師さまはここに誰かがいると思って来られたようだったっけ。
ならば別の魔術師か。
「うわー、すっげー。こんなところに建物があるなんて、オレ知らなかったよ!」
あれ、なんだろう。知っている声のような。
「あ、オレが開けるよ、お姫さま」
彼の声はよく聞こえるが、一緒にいるらしい人物の声は聞こえない。……お姫さま?
扉が、開く。
と、間違いなく知り合いの顔が、興味津々と中をのぞいた。
「あれ? アルス? あ、イシルもいる」
「なんでおまえがこんなところにいる、ラルフ!」
アルスが口を開くより先に、もう一人が二階から怒鳴ってきた。
いや、階段を半分くらい下りてきている。
「そりゃあ、お姫さまの護衛に?」
「護衛?」
アルスとイシルの声が重なった。
それだけ違和感のある単語だったのだ。
護衛というのは騎士の仕事。
けれどこの友人、ラルフは騎士ではない。
「あれ? もしかしてここ、騎士じゃないオレが入るの、まずかった?」
ラルフは振り返って、ここに一緒に来たであろう人物に向かって言った。こつ、という小さな足音。
「まずくはないけど、そういうことは先に確認するものよ」
落ち着いた声。
軽やかでも華やかとも違う、でも、女の子の声。
「そうだよねー。でもキャロルがいるからいっかなーって」
ラルフがいつもの軽い口調で語る先に、その人物は姿を現した。
黒髪の、ドレス姿の女の子。貴族のお姫さま、なのか?
アルスは急いで貴族に対する礼をしようとしたけれど、まるでアルスのことなど目に入らないかのように、そのお姫さまはアルスの横をするりとすり抜けた。
おどろいて振り返れば、お姫さまは書棚を覗き込んでいる魔術師さまのところへ近寄っていた。
二階から、友人のイシルが下りてきた。
「おいラルフ、なんだ、あの女?」
気になったようだ。
あまり周囲の人間に興味を持たないイシルにしては珍しい。
とはいえ、貴族らしい人ををあの女、などと呼ぶのはちょっと……どうだろう。
「ああ、キャロルはオレらの同級生だよ」
けれどラルフはさらっと言った。
オレら、とはすなわち、ラルフとイシルの、である。アルスはちがう。
「で、いまは魔術師さまね」
続けてまた、さらっと言った。
「は?」
「なんだと? 貴族で魔術師なのか?」
ぽかんとするアルスの隣で、イシルが小さな声で怒鳴った。こいつはときどき器用なことをする。
そしてイシルも、彼女が貴族に見えたようだ。けれどラルフはああ、と笑って手を振った。
「ちがうちがう。キャロルはお姫さまだけど、貴族じゃないよ」
「なに? どういうことだ? まさか王族なのか?」
イシルの声がだんだん小さくなっていく。
アルスはちらっと奥の書棚のほうを見たけれど、おふたりがこちらを気にする様子はない。
「うわ、ごめん、ややこしくなった。キャロルは普通の女の子。貴族でも王族でもないよ。でもまるでお姫さまみたいだなーって思うことがあるから、オレがそう言ってるの。それだけ」
「なんだそりゃ。まぎらわしいな」
「友だちになってみればわかるよ」
ラルフはいつものように軽い口調で、でも真面目な目をして言った。
それがなんだかいつもと様子がちがうような気がして、アルスは少し気になった。
「そもそも騎士団に司書が配属されるなんて、聞いたことがありませんわ」
「ああ、確かにそうだね」
急に奥のほうから会話が聞こえてきたので、反射的に振り向いた。
ふたりの魔術師さまが、こちらを向いて歩いて来られているので、声が届いたらしい。
アルスはそのとき、ラルフが友人だという女性の顔を見て、いや正確にはその双眸を目にして、ぎょっとした。
あわてて平素を装ったけれど、いまのこちらの表情を彼女に見られただろうか。
「ラルフ、わたくしは騎士団まで行ってくるけれど、あなたはお友だちがいるようだから、ここで待っていて」
彼女が足を止めずにラルフに声をかける。
それにラルフがそれにこたえる前に、彼女の前を歩いていた背の高い魔術師が、見下ろすように振り返った。
「なに、貴殿こそご友人と一緒にここで待つがよい。カストルを呼びに行くだけだ」
「いえ、カストルどのがなんでも知っていらっしゃるわけではないでしょう?」
「それはそうだろうけどねぇ。騎士たちはあまり魔術師と話したがらないからね」
魔術師さまが顎に手を当て苦笑した。
アルスはぎくりとした。
おそらく、隣のやつも。
「魔術師さま」
そのときその隣のやつ、イシルが話に割り込んだ。
いくら気の短いイシルでも、まさか、いまので怒ったりはしない……よな? 自信はないけど。
「うん? なんだい?」
「騎士団への使いなら自分が行って参ります」
淡々と申し出るイシルに、アルスははたと気づいた。
気づかなかった自分に驚いた。
そうだ、ここにいる一番下っ端だろう自分たちこそ、その任に相応しい。
やっとそう気づいたアルスを、まるで見透かしたようにイシルが睨んできた。
だからなんで俺はいちいちこいつに睨まれるのだろう。
そう思いつつも反射的に睨み返しそうになって、でも。
その前に。
「では行って参りますわ」
魔術師のお姫さまがさっさと歩き出した。
イシルが申し出たことはまるで無視。
そうまるで、俺たちのことなんか見えも聞こえもしないかのように。
「ちょっとキャロルー。無視しすぎだよー」
唖然としているイシルとアルスの隣で、ラルフが能天気に声をかける。
彼女は、ラルフの友人だという。
でもその友人の声にも、彼女は立ち止まりも振り返りもしない。
背を向けたまま。
「悪いけどわたくしは雑務に割く時間はないの。早く資料を探し出したいので、自分で行くわ」
そう言い捨てて、扉に向かう。
彼女の手が扉を押し開けようとしたとき、そうか、とアルスは思いついた。
思ったらすぐに、声をかけていた。
「魔術師さま!」
返事は、ない。
でも動きは少し止まった、かも。
「どうしたのさアルス?」
かわりに反応したのはラルフだった。
ラルフはなんていうか、気が利くというか、そう、場の空気を読むのが上手い。
返事をしない彼女のかわりに応えたんじゃなくて、アルスが続きを言えるように、促してくれたのだ、きっと。
「資料をお探しでしたら、わたしがお手伝いします。ここにある本はほとんど目を通していますから、きっとお手伝いできると思います」
彼女がまた無視して出ていく前に、アルスは急いで言い切った。
でも、やっぱり彼女は振り返らなかった。
「さっすがアルス」
そして最初に反応してくれたのは、また、ラルフだった。
「だってさ、キャロル。こいつは学院の後輩、オレたちの一コ下で、首席だったんだぜ」
ラルフは抱き着くように腕を肩に回してきた。
なんだ? 仲が良いことのアピール? でもアルスは不思議に思ったが、深く考える暇はなかった。
「ほう。それは頼りになりそうだ」
背の高い魔術師さまが、アルスのほうに注目したからだ。
「あ、はい。お役に立てると思います」
ラルフの腕が絡まったままアルスは魔術師に礼をする。
と、ついに、彼女が顔を半分だけ振り向かせた。
片方だけの目がアルスを見て、それから小さくため息。そして、
「わかったわよ、ラルフ。もういいわ」
と、よくわからないことを言った。
するとラルフの腕がするりと離れていった。
仲良しアピール、というか、なんだろう。警戒しなくていいよ、という証明、だろうか。まさかそんな大袈裟な。
ラルフが言うとおり、彼女はお姫さまのように見える。
見た目の印象だけなら、むしろ彼女に命令されるくらいのほうが違和感がないかもしれない。
でも実は、人見知りな女の子だったりするのだろうか。
それとも事情があって、誰も信用していないとか、そういうことだろうか。
だってさっき、彼女は振り返ってアルスを見たんじゃない。
アルスに絡んでいた、ラルフを見たのだ。
「では早速お願いするとしよう。まずは……」
彼女の態度には構わず、もう一人の魔術師さまが書架に向かって歩き出す。
探しているものの説明を始めてしまったので、アルスは急いで頭をそちらに向けた。
ちらりと彼女に目をやったけれど、アルスと彼女は視線が合うことはなかった。